モンゴル人民革命党がモンゴル人民党に党名を改称(2010年10月12日

以前の「モンゴル時評」から継続して、モンゴル人民革命党の党名改称問題について。

人民革命党は、2010年11月4日、人民革命党第26回党大会を政府官邸会議場で開催した。代議員773人(ウヌードゥル新聞2010年11月5日付および電子版)。この大会の主要な議題は党名改称問題であった。

С.バトボルド人民革命党党首(首相)は、30分にわたる基調報告をした。その報告要旨は次の通り。

この人民革命党党大会は過去20年間の肯定面と否定面、将来の20年間の発展の方策を協議し決定する大会である。過去20年間の肯定面は、憲法制定、新しい選挙制度の実施、思想信条の自由の確立、所有の多様な形態と国内総生産の70%を占めるようになった私有の成長、国際関係の拡大である。過去20年間の否定面は、犯罪・貧困・失業問題の未解決、自然環境の破壊である。将来の20年間に人民革命党の堅持する主要な政策は、これまでの否定面を正し、国家安全保障を強化することである。特に、失業、貧困問題を解決し、責任問題(注:モンゴル人が日常話題にする「ハリオツラガ=責任、義務」のこと)を重視することが重要である。そのために人民革命党を改革しなければならない。その一環として、モンゴル人民党の名称を復活させ、綱領を明確にする必要がある(ウヌードゥル新聞2010年11月5日付。全文はウヌードゥル新聞2010年11月5日付および、どういうわけか前日の2010年11月4日付電子版)

これに対し、人民革命党第26回党大会に参加しているエンフバヤル元大統領・元人民革命党党首は、党名改称に反対した。彼の発言は次の通り。

この大会は、自分たちの主張する中道左派路線をどのように取り扱うか注目される。(現執行部のいうことと違って)左派は左派、右派は右派であるべきでこの二つを(現執行部は)混合して「民族民主主義」という右派思想を導入しようとしている。(С.バトボルド党首の基調報告には)汚職撲滅、党員養成のための具体案がない。反党行為による党追放方針の強化策で威嚇しようとしている。左派と右派の混合は(党の)改革ではない(ウヌードゥル新聞2010年11月5日付電子版)

結局、エンフバヤルの主張は、少数意見となり、現執行部のモンゴル人民党への党名改称案(党旗を含む)が採決された。そして、最高裁判所は、2010年11月12日、モンゴル人民革命党のモンゴル人民党への改称を認可した(ウヌードゥル新聞2010年11月13日電子版)

人民革命党の前身であるモンゴル人民党(МАН)は、1920年6月25日、秘密の二つの革命グループ(東フレー・グループと領事館丘グループ)が革命運動活動家ダンザンの家に集合し、結成した政治結社である。その後、人民党は、1924年、人民革命党と党名を変えた。

従って、人民革命党は、人民党という元の党名に戻ったわけである。

さて、モンゴル人民革命党の党名改称については、ジャーナリストのА.バータルホヤグ(М.エンサイハンが民主党党首をしていた時期[2004年]の民主党対外宣伝部部長)が述べるような(ウヌードゥル新聞2010年11月8日付および2010年11月16日電子版)、一つの政党の解党ではない。А.バータルホヤグは、1990年前半期の民主化運動の時期に、ネルグイが主張したモンゴル人民革命党の解党と関連づけて述べている。ネルグイは、当時、人民革命党がソビエト・ロシアへの植民地隷属を推進したとして、人民革命党解党を主張していた(注:П.Нэргvй, Монгол Улсын Ээдрээт Замнал, Улаанбаатар, 2007 参照)。

こうして、バータルホヤクが連想させるような人民革命党の解体が実現したのではない。

モンゴル人民革命党からモンゴル人民党への党名改称は、各国中道左派政党の世界組織「ソツィンテルン(社会主義インターナショナル)」への加盟に起因している(注:詳しくは筆者の前の「モンゴル時評」参照)。

その際に、奇異に見えるのは、エンフバヤルが党名改称に反対していることである。実際のところ、エンフバヤルは、1996年、人民革命党の党首に就任して、社会民主主義的な党綱領への改定を推進した。そして、社会民主党が民主党へ「吸収」されたのに伴い(2000年)、人民革命党の「ソツィンテルン」への正式加盟が実現したのであった(注:当該組織への加盟は一国一政党限定という原則のため、当時、人民革命党はオブザーバーの資格で加盟していた。正式加盟メンバーは社会民主党だった)。その際の条件として、「革命」という字句が「ソツィンテルン」の性格と合わないことが指摘され、党名改称を勧告されていた。

現在、エンフバヤルはその党名改称に反対している。だが、人民党が劇的にその性格を変えるというのは考えにくい。

では、なぜ、ここにきてエンフバヤルが党名改称に反対したのか。それは、権力掌握をめぐる現指導部に対する彼自身の不満からくるものであろう。エンフバヤルは、2009年の大統領選挙敗北(注:現職有利であった)の責任が人民革命党現執行部による大統領選挙運動サボタージュにあり、現執行部がまさに「責任(ハリオツラガ)」をとっていないと考えている。そのため、彼は現執行部への反対行動をとっているのである。(2010.11.14)

(追補)2011年1月28日、この人民革命党の人民党への党名改称に反対する人々は、集会を開き、人民革命党を結成した。そして、その党首にエンフバヤル元人民革命党党首・前大統領を選出した(ウランバートル・ポスト新聞電子版2011年2月1日付)。

政党法(2005年)によれば、党名改称後5年間は、その党名を名乗る政党の結成が禁じられている。かつて、社会民主党(注:当時の党首はゴンチグドルジ)が2000年に解党して、民主党に合流したが、これに反対する副党首(当時)ガンバータルたちは、5年後の2004年、新生の社会民主党を再結成し、その党名が最高裁判所によって認可された。

だから、この政党法の規定から見て、人民革命党結成が最高裁判所で認可されるかどうか疑わしい。

いずれにしろ、この動きは、モンゴルの最高権力者と見なされるエンフバヤルによるものだけに、波紋をよぶものである。エンフバヤルは、民主党を追放されたエンフサイハン(注:現在は民族新党を結成して前党首を務めた)と連携して、モンゴル政治の第三極を目指すかもしれない。(2011.02.20)

(追々補)人民革命党の「創設」を主導している、人民党(旧人民革命党)選出の国家大ホラル(国会)議員Ц.シンバヤルの略歴。


(注:Ж.Батсvх, О.Чинзориг, Монголын Авъяаслаг Бизнесмэнvvдийн, Нууц の写真より)

Ц.シンバヤルは、1960年8月3日、一級会計士ツェンドの長男として、ドルノド・アイマグのチョイバルサン・ソムに生まれた。

1978年、高等専門学校(現・科学技術大学)鉱山学科に入学。同校卒業後、ウランバートル市第四火力発電所に就職。

1983年、ドルノド・アイマグの火力発電所に移った。「モンゴル革命青年同盟」支部長、火力発電所局長を経て、1990年を迎えた。

1990年、30歳の時、チョイバルサン火力発電所所長となった。

1996年、経営大学院で経営学を学んだ。・・・

1990年以降の経済活動について。

彼は、「ドルノド商事」の60%の株を競売にて取得し、ロシア人および中国人と共同で商業に従事した。

木材業「ウブル・エレーン」社の55%の株を取得した。

建設業「チャンドマニ・タル」社の株を取得した。

石炭業「アドーンチョローン」社の90%の株を取得した。その際、当時の慣行を破って、現金で支払って、「愚かな行為」だと人々を驚かせた。当社は、地方の電力エネルギーを100%まかなったのみならず、ロシアに石炭輸出ができた。1999年当時、ドルノド・アイマグ予算の56%に相当する金額を納税した。

ホテル業「ガン・ヘルレン」社を買収した。

酪農業「タリン・オラーン」社を創設し、20頭の乳牛から毎日400リットルの牛乳を生産した。

Ц.シンバヤル傘下の企業の従業員数は、数千人。(Ж.Батсvх, О.Чинзориг, Монголын Авъяаслаг Бизнесмэнvvдийн, Нууц, Улаанбаатар, 2007)

このように彼の経歴を見ると、Ц.シンバヤルは、東部ドルノド・アイマグの全部門で経済活動を独占的に展開していることがわかる。そして、その行動は、愚直である。ここらが、今回の人民革命党「創設」のための行動の動機となっているのだろう。(2010.02.27)

トップへ
トップへ
戻る
戻る
次へ
次へ