
人民革命党党名改称問題(2003年11月03日)
ブラジルのサンパウロで開催された、社会主義インター第22回大会(2003年10月27日〜29日)で、人民革命党が正式メンバーに承認されたが、その際、1997年の人民革命党第22回党大会で、中道左派路線が採択されたために、「人民」、「革命」という名称がそぐわないのではないか、という問題(いわゆる党名改称問題)が浮上した。
これについて、ビャンバドルジ書記(国家大ホラル[国会]副議長)は、「粛々として進め」、「党大会で(党名変更の可否を)決定する」と、11月3日の記者会見で述べた(ウヌードゥル新聞2003年11月04日付、およびゾーニー・メデー新聞2003年11月04日付)。
このいわゆる「党名変更問題」は、1992年3月の人民革命党第21回大会までさかのぼる。ここで採択された綱領「モンゴル人民革命党のめざすところ」では、「モンゴル人民革命党は国民のもつ固有の権利を明確に守り、民族統一、社会進歩をめざす、民族民主主義的性格をもつ政治組織である」、と規定している。つまり、「社会主義」という名称は綱領から消えてしまったわけである。そして、その際に、この「人民」、「革命」という名称が問題となった。結局は、この「革命」という用語は、「革命し改善する」という意味であって、モンゴルで起こっている革命や改革からみて、時宜に適ったものである、ということで決着をみた。
次いで、1997年の第22回党大会では、党路線が「民族民主」路線から「中道左派」路線へと、さらに右傾化した。これは、「民営化(国有財産の私有化)」を承認し、漸進的に「資本主義」をめざすことを意味するものであった。
人民革命党は、「党名改称問題」を含めて、二つの意見の「対立」がある。一方は、バガバンディ前党首(現大統領)を代表とする。彼らは、前記のように、政府の強力な指導の基に、社会を「革命」し「改善」することをめざしている。
もう一方は、エンフバヤル現党首(現首相)を代表とする。彼らは、漸進的に資本主義をめざす。エンフバヤルは、2000年国家大ホラル(国会)選挙で勝利し、首相に就任した際、モンゴルの「ブレア(英国首相)」になりたい、と抱負を述べたことがあった。
現在のエンフバヤル政権は、ツァンジド教育文化科学相をはじめ、ビャンバドルジ国家大ホラル(国会)副議長など、エンフバヤル派で固められている。ビャンバドルジなどは、民主党(社会民主党系)のゴンチクドルジが主宰する、「アルタン・ガダス」グループに参加しているほどである。
さて、人民革命党がその党名を変えるかどうかは、当該党の党内問題であるからして、部外者がとやかく言うこともないわけであるが、よく国内外から、人民革命党のことを、「共産党」とか、「コミュニスト」とか呼ぶことがある。
人民革命党は未だかつて「共産党」であったことは一度もない。1921年に、この党は人民党から人民革命党に党名を変えたが、「共産主義」党であったのではなく、「非資本主義」の道を目指していた。1960年に、ソ連の政治的経済的影響下で、いわゆる「ツェデンバル憲法」が制定され、「社会主義建設の基礎が完了した」、と規定されたが、その「社会主義」とは、ソ連を手本にしていた。
だが、ソ連とは異なり、肉体的抹殺を伴う「政治的粛清」は存在せず、シベリアでの「強制労働」もなく、地方への追放(=牧民になること)であった。かえってその方が望ましいとさえ筆者には思える。従って、この「社会主義」とは、極めて「モンゴル的な民族主義的な」色彩の濃い、古典の規定する「社会主義」とは異なった、「モンゴルの歴史に適合した社会主義」であった。まして、彼らが「コミュニスト」であったことは一度もない。
次に、現在の、特に、エンフバヤルたちの中道左派路線は、確かに「人民革命」党にふさわしくないかもしれない。事実上は、この「人民革命」あるいは、「民族民主主義革命」的な路線は、つまり「左派路線」は、民主新社会党が採用している。党名と路線を一致させるなら、民主新社会党の方が人民革命党にふさわしい。
ところが、この民主新社会党は、党財政がおそらく苦しいのであろうか、民主党のエンフサイハンに「釣り上げられて」、「祖国・民主同盟」を結成してしまって、その本来の姿からはほど遠くなりつつある。
従って、「人民革命党」という名称の実質的な内容は、モンゴルではすでに失われてしまっている。であるからして、論理的には、人民革命党がその党名を変えることは、首肯できるわけである。もっともそうなれば、モンゴル本来の歴史の道からはますます逸脱していくことになる。(2003.11.11)
