
2009年5月24日実施のモンゴル大統領選挙でエルベグドルジが勝利した(2009年5月25日)
モンゴルでは大統領選挙が2009年5月24日(日)に実施された。新憲法(1992年)公布後では、5回目の大統領選挙であった。
今回は、人民革命党推薦のН.エンフバヤル大統領と民主党推薦(市民の意志党、高フ党支持)のЦ.エルベグドルジ元首相が立候補した。
(注:エンフバヤルの選挙看板。「団結と『祖国の贈り物』」とある。モンゴル国立大学2号館交差点西側)
(注:エルベグドルジの選挙看板。「改革」とある。モンゴル国立大学2号館交差点東側)
民主党は、選挙の翌日2009年5月25日早朝、エルベグドルジが勝利した、と発表した(同日8時30分。イーグル・テレビ視聴)
中央選挙管理委員会は公式の選挙結果を発表していない(同日9時30分)。
元来、モンゴル大統領は、憲法の規定によれば、国家安全保障会議議長、モンゴル国軍総司令官などをつとめる(注:国家元首ということ)。この職務は、非常事態宣言時の大統領権限である。モンゴルが多方位外交を採っているので、よほどのことがない限り、これは行使されることがない。もっとも、2008年7月1日の「騒乱」で「非常事態宣言」が発表されたが、これが新憲法下で初めてであった。
現実的には、最高裁判所裁判官の任免権と、政府への政策提言および国家大ホラル(国会)決議に対する拒否権がたびたび行使される。
従って、モンゴル政治経済にはそれほど影響力がない。
モンゴル大統領が党籍を離れるのは以上の意味からである。
これは、1990年以前のような権力の一極集中の弊害が考慮されたからである。かつて、ツェデンバル(首相その他)への権力集中が非難されていた。
今回の大統領選挙では、両陣営の選挙綱領が「団結」(エンフバヤル)と「改革」(エルベグドルジ)であって、その実質的な内容は、同じである。すなわち、社会が「団結」しての社会民主主義的発展(エンフバヤル)と、「改革」(エルベグドルジ)は、実質的には同時に行われる。
その施策は、国家大ホラル(国会)と政府によって立案・実施される。現在、С.バヤル政権(注:人民革命党と民主党との連合政権)は、その方向で活動している。
ただ、エルベグドルジが大統領に就任した場合、
以前に「IMF路線論争」で述べたとおり、С.バヤル政府と大統領府が対立して、2006〜2008年の政治混乱が繰り返される可能性がある。これは、懸念材料である。(2009.05.25 10:40AM)
そして、12時20分、エンフバヤルは、政府官邸で記者会見を行い、中央選挙管理委員会の公式発表がないまま、エルベグドルジ勝利を認めた。そして、エルベグドルジに対し、政府と協力してモンゴル発展のために尽力することを呼びかけた(ウヌードゥル新聞2009年5月25日付電子版)。
さて、エルベグドルジ当選(あるいはエンフバヤル落選)の理由について、言及したい。
まず、その主要な原因は、モンゴルにおける「貧富の差の拡大」である。このため、市民運動が起こり、いくたびか無秩序状態が現出した。その象徴的事件が2009年7月1日の「騒乱」であった。
市民運動の矛先は、エンフバヤルに向けられていた。エルベグドルジはそれを煽った側面もあった。
この「貧富の差の拡大」は、1990年代初頭にまでさかのぼる。
モンゴルは、1991年、IMF指導による「市場経済」の名のもとで、資本主義の「侵入」を受け入れた。「民主化運動」はその時点で変質し、経済的利得を追い求める一群の「群盗」と化した。
彼らは、汚職によって国有財産を簒奪し、与党と野党を縦断する富裕層を形成していった。一方、「ネグデル(農牧業協同組合)」および国営企業の解体によって、生活手段を喪失した人々は、失業者となって、ウランバートル市および地方中央部に流入していった。
この状況は、この20年間を一貫する。
彼らは、その非難の矛先を、初期資本主義を指向する民主党ではなく、社会民主主義を指向する政府与党である人民革命党および大統領府に向けた。アナーキーに近い初期資本主義は、何事もバラ色の「民主主義」と混同された。
彼らは、本来の敵を見誤っているといわなければならない。
次に、2009年に入ってから、米国に発した「世界経済混乱」が経済的基盤の弱いモンゴルに波及した。特に、銅世界市場価格の急落は、モンゴルの国家予算赤字をもたらし、インフレ(物価上昇)、ドル高、国民の生活苦を誘発した。
こうして、銅・金などの地下資源から得られる収益を国民に分配する、というエンフバヤルの「祖国の贈り物」構想は、早急には実現されなかった。
エンフバヤルは、基本的には、有能であるにもかかわらず、それほど能弁ではない。一方、エルベグドルジは天性の能弁さがある。エンフバヤルは、国民の「団結」を訴えるのみで、エルベグドルジによる「改革」や「民主主義」という目くらましに対応できなかった。
もちろん、IMF路線を受け入れたエンフバヤルは、「貧富の差の拡大」を「経済発展」によって解消するしかなかった。だが、世界経済の混乱がそれを頓挫させた。
これが2009年モンゴル大統領選挙のあらましである。(2009.05.25 23.30PM)
(追補)2009年大統領選挙の投票者数(非公式)は、約109万7000人、エルベグドルジの得票数は、56万2459票、エンフバヤルの得票数は、52万0805票、無効票は、1万3000票だった。無効票が多いことが今回の大統領選挙の特徴であった(ウヌードゥル新聞2009年5月29日付)。これに付言すれば、エルベグドルジの得票数は約51%である。これは、約半数がエルベグドルジに投票していないことを意味する。このことが今後のモンゴル政治に否定的な影響を及ぼす可能性がある。(2009..5.31)
例えば、エルベグドルジ支持者たちは、2009年5月25日、スフバートル広場で祝賀集会を開いた(注:この「集会」は、ウランバートル市に無届けである可能性があるが、筆者は無確認))。その時、ハンオール区在住の一青年は、エルベグドルジに向かって、履いていた靴を投げつけた。
(注:sonin.mn 2009年5月25日[電子版])のものを再掲)
彼は、ただちに警察によって逮捕されたが、「(私は)酒に酔っていたが、イラク人が前米大統領ブッシュに対して靴を投げたではないか」、と述べた。
彼は、21日間の禁固刑が言い渡された(ウヌードゥル新聞2009年5月28日付)。
これは、
かの2009年7月1日の「騒乱」のミニ版であるが、選挙民に不満があることを物語っている。7月1日の「騒乱」は、エルベグドルジが「扇動」した面があった(注:逮捕されていないが)。今回の「集会」では、エルベグドルジはイスラムの習慣によって「靴」を投げつけられた。
2006年から打ち続く「政治混乱」は、「エルベグドルジの怨念」によって引き起こされてきた。彼が大統領に就任してからもこの姿勢を採るならば、一層の混乱が起こるであろう。
一方、人民革命党には改革の動きが現れている。
人民革命党ウランバートル市委員会委員長Т.ビレグトは、大統領選挙敗北の責任を取って辞任した。そして、彼の後任に、Б.ムンフバータル・ウランバートル市助役(前バヤンズルフ区長)を選出した。
また、人民革命党内「伝統・革新ー民主・公正」グループは、1)大統領選挙敗北の原因を分析すること、2)権力・公職をむさぼるビジネスマンから距離を置くこと、3)「改革」と「公正」を進めること、などを要求した。そのために、ウランバートル市、ダルハンオール・アイマグ、オルホン・アイマグで公開討論会を開催することを同グループは提案した(ウヌードゥル新聞2009年5月30日付)。
こうして、モンゴル現代史は、前進と後退を繰り返し、未来に向かって進んでいく。(2009.06.01)
