「第二モンゴル民主同盟」の集会が開催された(2007年08月28日)

「モンゴル民主同盟」(代表Х.バトトルガ[国会議員、ジェンコ・グループ総帥]、副代表Ш.トゥブデンドルジ[1996〜2000年ウランバートル市議会議長、1999〜2000年国防相、Монголын Ардчилсан Холбоо, Тvvхэн Товчоон, Улаанбаатар, 2003 он, т.83参照)]とは別に、モンゴル民主同盟創設者による「モンゴル民主同盟」の集会が、2007年08月28日、開かれた(参加者214人)。

П.ネルグイ、Г.ボシグト、Д.ニンジ、Р.トゥメンツォグト、С.バトボルド、Г.ツォグゾルマー、Л.エルデネトールたち15人が幹部会員として選出され、Г.ボシグトが代表に就任した。

彼らは、前者の「モンゴル民主同盟」がもたらした成果をまだ手中にしていない人々に、その成果を与えることを目的としている、主張する。

一方、前者の「モンゴル民主同盟」副代表Ш.トゥブデンドルジは、この集会が金銭目当ての人々の集会である、と非難した(以上、ウヌードゥル新聞2007年8月29日付)

さて、両者とも「モンゴル民主同盟」を名乗っており、いささかややこしい。

一般的に言えば、「モンゴル民主同盟」とは前者の団体である、とモンゴル人は認識している。

この前者「モンゴル民主同盟」は、2007年4月27日、大規模な集会をスフバータル広場で開催した。この集会の性格は、この前者「モンゴル民主同盟」が市民運動と合流することによって、М.エンフボルド政権打倒を目指すものであった。これについては、以前にこの「モンゴル時評」で書いた。

一方、今回論評する、後者「モンゴル民主同盟」の性格は、どんなものであるか。

この後者「モンゴル民主同盟」は、前者「モンゴル民主同盟」内の「ニュー・ウェーブ・グループ」が主体となっている。彼らは、前者「モンゴル民主同盟」に対抗して、2003年2月18日、集会を開いたことがあった。

前者「モンゴル民主同盟」は、1990年4月27日を転回点として、政権に接近し、市場経済化推進という名目の下で、自己の利得を図るグループに変質していった。

この過程の中で、その変質に反対する人々は「モンゴル民主同盟」指導部から排除されるか、自ら離脱していった。その代表格がボシグトであり、ネルグイであった。

彼らの当初の意図は、強権的に政権を奪取して、真の社会主義を建設することにあったように思われる。

だが、1990年初頭に襲った経済混乱と、その後から入り込んできた「支援諸国」および国際金融諸機関による、金融「支援」によって、モンゴルは急速に「市場経済」の名の下での資本主義がはびこることになった。

この過程の中で、ネルグイやボシグトたちは忘れ去られていったのであった。

だが、民主同盟連合政権の腐敗に反対し、2000年国家大ホラル(国会)選挙に大勝利して成立した、エンフバヤル政権は、国際金融機関の代表格であるIMF路線を継承した。その結果、貧富の差が拡大し、貧困層がモンゴル全体の30%以上を占めるようになった。

この事態を背景にして、2000年代半ばから、市民運動が盛んになっていった。この市民運動は、政治面では、第三勢力化していった。

そして、2007年、前者「モンゴル民主同盟」は、バトトルガの指導の下で、市民運動を合体して、社会主義的政策を採り入れるМ.エンフボルド政権に反対する立場を鮮明にした。

これに対し、元来、「社会主義」を指向する「モンゴル民主同盟」内のグループは、この貧富の差の拡大を背景にして、自己主張を展開するため、集会を開いたのである。

これを象徴するかのごとく、2007年08月27日、人民革命党内に「モンゴル左翼連合」(代表フレルスフたち)が生まれ、社会主義、共産主義を目指す、と宣言した(ウヌードゥル新聞2007年08月26日付)。

(後注:この「モンゴル左翼同盟」のウランバートル市支部大会が開催され(2007年9月20日)、政府による投資政策を監視することを決定した。この組織の目的は、モンゴル人民革命党を改革することであり、現在の支持者数は1万2000人であるという[ウヌードゥル新聞2007年9月21日付])。

今後、この流れがどうなっていくか、注目される。(2007.09.02)

(追補)モンゴル民主同盟がХ.バトトルガに独占された、として、新たに「民主同盟発展党」が結成された(代表С.バトボルド)。(ウヌードゥル新聞2008年1月10日付)。(2008.01.20)

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