
モンゴル民主同盟主催の集会が開かれた(2007年04月27日)
かつての呼びかけ通り、モンゴル民主同盟(代表Х.バトトルガ)は、2007年4月27日、スフバートル広場で集会を開いた。
モンゴル民主同盟は、18年前のように(注:後述)大勢の人々が参加して、「第2次社会革命を起こす」と、広報活動を繰り広げ、「誠実、強力な政治、豊かな市民社会のために統一しよう」というポスターを市内至る所に貼った。
(市内至る所にこのポスターが貼ってある。2007年4月27日、筆者写)
民主党党員と民主同盟員が一人当たり10人を動員し、スフバータル広場を老若男女で埋め尽くした(注:予定時刻の12時より遅れて開催されたが、これはモンゴルではよくあることである)。
彼らは、「国民の声に耳を傾けない国家大ホラル(国会)は解散せよ」、「収賄者М.エンフボルド(首相)を解任せよ」、「鉱山と政権を国民の手に」などのスローガンを掲げていた。
主催者側のДарь.スフバータル(注:モンゴル民主同盟による最初の集会を組織した一人)は、1990年の民主革命に不足していたものを取り戻すのがこの集会の目的である、と演説した。
この「不足していたもの」とは何か。
すなわち、それは、人民革命党を非難して、政権を担うことのできないМ.エンフボルドを罷免し、国家大ホラル(国会)を解散させること、である。彼らは、新聞に1頁全面を使ってこの主旨の広告を出した。
(ウヌードゥル新聞2007年4月28日付C3面の一部。[後注]:その大半が人民革命党批判である。これに対し、人民革命党は、この記事が[民主党、市民の意志党、『健全な市民戦線』、『オドゥリーン・ソニン新聞』、『政治新聞』などを含め]、人民革命党およびその党員16万1000人への不当な攻撃であるとの抗議声明を出した。ウヌードゥル新聞2007年5月5日付参照)
モンゴル民主同盟は、集会参加者たちに1万トグルグを与えて、こうしたスローガンを掲げさせた。若手音楽家たちに、多額のギャラを払って、「ホンフニ・ドー」(注:1990年に歌われたもの)などを歌わせた。彼らを見るために集まった若者たちも大勢いた(注:この時刻、筆者は講義中であったが、学生たち何人かはこの「コンサート」を見る[聴く]ために欠席していた)。こうした資金は、「ウランバートル市内の区」および「アイマグ」の民主同盟支部が拠出し、また、支持する企業から寄付金を募った。
かくて、この集会は、選挙前に見られる通常の「ショー」となった(ウヌードゥル新聞2007年4月28日付)。
モンゴル民主同盟は、1990年4月24日、声明を発表し、「モンゴルにある官僚主義」と「スターリニズム」を払拭してから135日になるが、その間、「高度に発達した人間の顔をした民主、独立のモンゴル建設」を目指すデモ集会を組織してきた。しかし、指導層(注:П.オチルバトたちをさす)は、我々の要求を押しつぶす隠然とした手段を駆使してきた。そこで、民主同盟は、民主化と改革のために、3項目の要求を人民大ホラル、閣僚会議、人民革命党中央委員会に対して行う(注:Монголын Ардчилсан Холбоо, Тvvхэн Товчоон, Улаанбаатар, 2003、33頁参照)。
この「3項目の要求」(注:実際は4項目)というのは、一部の指導層の保持している特権を廃止させるために、1)人民臨時大会の開催、2)人民特別会議に各政治勢力が平等に参加する、3)人民革命党中央委員会を政府庁舎から撤去させ、民主同盟と民主党に本部建物を提供する、というものであった。
そして、これらの要求への回答を4月27日12時まで行うよう要求した。これが受け入れられない場合、4月27日12時から、スフバートル広場で抗議集会を開く(注:Ж.Заанхvv, 1990 Оны Ардчилсан Хθдθлгθθний Тvvхэнд Холбогдох Баримт бичгvvд, Тэргvvн дэвтэр, Улаанбаатар, 2004、381−383頁参照)。
これに対し、モンゴル人民共和国人民大ホラル議長П.オチルバトは、この要求を受け入れず、また、4月27日は金曜日であり、国民が仕事をしている日であるから、いたずらな混乱を招くのを防ぐために、抗議集会を禁止する、と述べた(ウネン新聞1990年4月27日付より)(注:同上書、383−385頁参照)。
政府側は、4月27日10時、集会が不法であると宣言し、軍・警察に政府庁舎の周囲を固めさせた。
各方面から集まった民主同盟側の人々は、スフバートル広場を埋め尽くした。
民主同盟のエルベグドルジ、バトウールたちは、現在の状況を「цагаанхоолойгоор 声高に」演説し始めた。この間、一色触発の事態であった。
民主同盟代表の一人С.ゾリグは、政府側が無秩序状態を作り出し、我々を弾圧しようとしている、と判断し、民主同盟側の暴発を必死に押さえようとして、再度要求を出し直すことを呼びかけた。
こうして、民主同盟の集会が解散した(注:前掲Монголын Ардчилсан Холбоо, Тvvхэн Товчоон、34頁参照)
民主同盟は、当時、П.ネルグイ(モンゴル国立大学・経済学博士)によって理論的に指導されていた。彼の構想は、この軍事衝突によって、モンゴル国内を内乱状態にし、モンゴル民主同盟が政権を一気に掌握する、というものであった。
この間の事態について、П.ネルグイが回想している。彼は次のように述べている。
「ソ連、中国とも植民地を作った。ソ連崩壊は隠された植民地体制の崩壊だった。ソ連、中国とも、社会主義、共産主義を建設できなかった、民主革命は1990年5月で終わった。」(フフトルボー新聞2007年1月17日付)。
政治的社会的混乱はС.ゾリグによって阻止された。以降、民主同盟は、民主的選挙によって政権獲得を目指すことになった。
一方、政府指導層は、いままで民主同盟側の要求に妥協的であったが、以後、強硬姿勢に転じたのであった。
民主同盟側は、こうした事態にどう対処するかをめぐって、内部分裂の兆候が現れ始める。
1990年4月27日の民主同盟の集会は、以上のような性格を持つ。一方、18年後の4月27日の集会は、どのような性格を持つか。
ウヌードゥル新聞は(注:現時点でモンゴルを代表する新聞といってもよい)、「選挙前のショー」だと書いた。
これには、もう少し説明が必要かもしれない。
現在のモンゴル民主同盟は、民主党内で一つの派閥を形成している。一時、С.エルデネに率いられていたが、汚職疑惑のために、ジェンコ・グループ総帥のХ.バトトルガと交代し、資金的には、一見豊かになった。
このХ.バトトルガは、2004年の選挙にバヤンホンゴル・アイマグの選挙区から立候補し、当選した。彼は、それまで、市民の意志・共和党に入ったが、彼の選挙対策のため、エルデネバトの民主新社会党に鞍替えした。当選後は、民主党に加入した。
彼は、銀行・金融面では、人民革命党出身の経済官僚および企業・銀行経営者と利害が対立するから、人民革命党打倒を意図する。政治的には、(彼には明確な政治的主張があるようには思われないが)、「政府の権力利用」をめぐって、エンフバヤル大統領と対立する。
こうして、民主同盟によるこの集会は、Х.バトトルガの影響を強く受けたものとなった。
少し格が違うような気がするが、現在の政治状況は、エンフバヤルとバトトルガの対立が軸になっている、と述べるものもいる(<エンフバヤルとХ.バトトルガとの静かな戦争と、政治形態、混乱、デモ集会(エムジン論説>。ウヌードゥル新聞2007年4月27日付参照)。
ところが、民主党内には、アルタンガダス・グループを中心に、エンフバヤル大統領と合体して、政権を掌握構想がある。だから、Х.バトトルガは、民主党内で孤立しかけている。経済分野への進出を密かにねらっているエルベグドルジ民主党党首が必死の橋渡し役を果たしているのが現状である。エルベグドルジもХ.バトトルガの資金力を当てにしている節もある。
そこで、Х.バトトルガは、今まで資金面で面倒を見てきた、市民運動体に支持基盤を移そうとしている。一方、市民運動体(「健全な社会のための市民運動」、「ソヨンボ」、高齢者自由同盟、「我がモンゴルの地」、「ダヤル・モンゴル」など)は、相互に結びつきを強め、第三勢力化している。
彼らは、市民の意志党と協力関係を強める(注:「健全な社会のための市民運動」代表の一人О.マグナイなどは同党に入党した)一方で、このХ.バトトルガを支持した。
こうして、市民運動体は、2008年の国家大ホラル(国会)議員選挙および地方選挙に立候補することを表明した(ウヌードゥル新聞2007年4月24日付)。彼らは、Х.バトトルガの影響の下で、エンフバヤル大統領弾劾およびМ.エンフボルド政権打倒を主張する。
民主党内で孤立するХ.バトトルガと、第三勢力として政界進出を目指す市民運動の合体が、今回の集会の政治的内容である。(2006.04.29)
(追補)これに続き、「モンゴル市民連合」(代表Д.エンフバト)は、2007年5月1日(メーデーの日)、スフバートル広場で集会を開き、「汚職反対」の署名を集めた。この集会は、モンゴル国立大学講師Ч.タミルが提唱したものである(注:彼は、ウヌードゥル新聞紙上[2007年5月2日付]で、この集会開催についての論説を執筆している)。
(www.irgen.mn より。ただし、これは当日の集会のものではない)
「モンゴル市民連合」代表Д.エンフバトの演説の後、Г.ジャミヤン(ジャーナリスト)、С.ナランゲレル(弁護士)、М.イチンノロフ(人権運動)、Ж.バトザンダン(「健全な社会のための市民運動」代表)、Ч.ジャルガルサイハン(「急進的革新」運動代表)、Дарь.スフバータル(モンゴル民主同盟)、Г.ホンゴルゾル(オルティンドー歌手)、С.サランツァツラルト(画家)、Т.クイザ(歌手)、Т.ガルサン(詩人)、О.マグナイ(市民の意志党)、Ж.ザナー(「民族ソヨンボ」運動)、Г.バーサン(自由老人同盟)、Г.オヤンガ(ジャーナリスト)、Б.エンフバト(「フフモンゴル」運動代表)らが演説した(ウヌードゥル新聞2007年5月2日付)。
この集会は、1)上記Ч.タミル論文、2)従来の市民運動家や、人民革命党および民主党からの参加者があること(注:「急進的革新」運動は人民革命党内改革グループであるし、М.イチンノロフは人民革命党、Ж.バトザンダンは民主党員である[だった?])から、第三勢力が結集したものである、と見ることができる。
「市民連合」のサイト(www.irgen.mn)にアップされている、2007年1月12日承認の「市民連合規則」には、「市民連合」は、1)市民の民主主義を確立し、2)社会的混乱からの脱却をめざす、3)非政治的団体である、と書かれている(「市民連合規則」第1条第1項)。
すなわち、現在の社会状況の「混乱」から脱却するために、この団体は、現在の国家大ホラル(国会)勢力を超えた政治勢力の確立を目指している、といえよう。(2007.05.06)
