首相派と大統領派の権力闘争(2007年09月06日)

Н.エンフバヤルは、2005年の大統領選挙に当選し、第4代大統領に就任した。彼は、1990年代は、文化相(ジャスライ政権)、人民革命党書記長、人民革命党党首、首相、国家大ホラル(国会)議長というふうに、順調に権力の階段を昇ってきた。今や、モンゴルの最高権力者であるといってもよい。

М.エンフボルドは、エンフバヤルが大統領に就任して党籍を離れたのに伴い、ウランバートル市長のまま人民革命党党首になった。その後、エンフバヤルの選挙区の補欠選挙に当選し、国家大ホラル(国会)議員になり、2006年には、エルベグドルジ政権から首相の座を奪取した。

М.エンフボルドが人民革命党党首に就任する際、エンフバヤルの指名を受けていた。だから、元来、エンフバヤル子飼いの継承者であるとみなされていた。

ところが、彼は、首相に就任してから、漸次、エンフバヤル離れを行っていった。

ここへ来て、両者の対立が激化している。

2007年8月30日、ウランバートル市ハンオール区長Д.ザグドジャブは、ウランバートル市住民代表評議会(ウランバートル市議会)に対し、38議員のうちの16議員の署名を添えて、モンゴル市長Ц.バトバヤル解任要求書を提出した(ウヌードゥル新聞2007年9月6日付)。

これは、エンフバヤル大統領の意を受けた、М.エンフボルド首相に対する反対行動である。

Ц.バトバヤルは、М.エンフボルドが首相に就任したのに伴い、ウランバートル市バガハンガイ区長を経て、市長職を継承した。その際、彼は、М.エンフボルドの推薦を受けていた。

(後注:その後、2007年9月18日、人民革命党書記長С.バヤルたちの調整により、このЦ.バトバヤル・ウランバートル市長解任要求案は、受け入れられなかった[ウヌードゥル新聞2007年9月20日付]。これは、来年2008年の国家大ホラル(国会)議員選挙前の分裂を回避しようとする、人民革命党指導部の意向であろう。)

2007年9月3日、人民革命党最大の組織である、ウランバートル市委員会委員長職をЁ.オトゴンバヤルがГ.ムンフバヤルに委譲した(ウヌードゥル新聞2007年9月4日付)。Ё.オトゴンバヤルはエンフバヤル大統領派であった。

2007年9月5日、国家大ホラル(国会)人民革命党会派は会議を開き、М.エンフボルド首相の要求した、Д.オドバヤル法務内務相、Ц.ツェンゲル運輸観光相、М.ツェレンピル国防相更迭案を17:17で斥けた(ウヌードゥル新聞2007年9月6日付)。

オドバヤルはエンフバヤル大統領派で、2004年国家大ホラル(国会)議員選挙で、ドルノド・アイマグ知事からエンフバヤル党首(当時)の推薦で立候補して当選した。また、この更迭案に強硬に反対したのは、「人民革命党内造反議員13人」(注:モンゴル語で”Элсний 13”といわれる)のЦ.シャラブドルジ、А.プレブドルジ、Ч.アブダイ、Д.オドバヤル、Ч.オラーン、Т.ガンディ、Д.テルビシダグバ、Д.アルビン、Р.ニャムスレン、Ц.ムンフオルギル、Л.オドンチメド、Т.オチルフー、А.ツァンジドであった。彼らは大半がエンフバヤル派である。

ちなみに、この結果を受けて、М.エンフボルドは、この更迭要求案を撤回せざるを得なくなった(ウヌードゥル新聞2007年9月7日付)。

2007年9月7日、第8回人民革命党小会議(=党代表者会議)がに開かれ、М.エンフボルド党首(首相)は、野党(=民主党)の選挙運動が着々と進行している中で、党内の若干の党員たち(注:Элсний 13のこと)が分派行動をとっている。これが野党に好餌を与えている、と演説した(ウヌードゥル新聞2007年9月8日付)。

これは、「人民革命党内造反議員13人」の行動を非難しつつ、エンフバヤル大統領の行動を牽制したものであった。

また、モンゴル政府前出版報道局長Н.デンベレルがエンフバヤル大統領非難の声明を出したことがあったが、この行為が大統領の名誉毀損であるとして、有罪となって服役している。

彼は、反М.エンフボルド派(=エンフバヤル大統領派)が、Ч.オラーン、Ц.ムンフオルギル、Сv.バトボルド、Ё.オトゴンバヤル(注:彼らは人民革命党)、Н.アルタンホヤグ、С.バヤルツォグト、Р.ゴンチグドルジ(注:彼らは民主党)たちである、と述べている(アルディン・エルフ新聞2007年2月23日付再掲)、ウヌードゥル新聞2007年9月6日付)。

これに対し、2007年9月7日、「急進的改革」(注:代表Д.エンフバト。例の「朝青龍騒動」の際、在モンゴル日本大使館に抗議デモを組織したグループ)は、「ツァイルト・ミネラル」鉱山会社が亜鉛鉱を一日当たり1億トグルグでモンゴル国外に搬出しており、この額は、3万6000戸のアパート入居権利額に相当する、とН.デンベレルが公表したが、これは正当なことである、述べた(ウヌードゥル新聞2007年9月6日付)。Н.デンベレルは、この事実の背後にエンフバヤルが存在している、ということを述べ、それを「急進的改革」が擁護したのである。

さて、この対立の背景は何か。

1997年2月21〜24日、第22回人民革命党大会が開催され、エンフバヤルは党首に就任した。彼は、社会民主主義的な内容を持つ党綱領を採択させ、党組織の革新に着手した。

そして、彼は、国家大ホラル(国会)野党会派代表として、民主同盟連合政権(1996〜2000年)の腐敗を果敢に非難して、2000年の国家大ホラル(国会)議員選挙で人民革命党による地滑り的勝利(76議席中の72議席)を導いた。

エンフバヤルは、選挙運動期間中、「中道左派」路線を進めることを述べていたのだが、首相就任後、次第にIMF路線を継承していき、2002年の訪米の際、ブッシュ大統領と会見し、「イラクへの軍派遣」、「市場経済、特に民営化(私有化)推進」を明らかにした。

このIMFプランは、「私有化」をてこに、歳出(特に社会保障部門)抑制と経済成長を目的とするものであった。これは、モンゴルの伝統(社会主義的経済活動および思考方法)に反するものであって、貧富の差を拡大していった。

このため、2004年の国家大ホラル(国会)議員選挙では、「子供たちに毎月1万トグルグ支給」という、「祖国民主同盟」の選挙公約(注:当時は財政的背景のない好餌ばらまき政策であった)の前に、獲得議席「36:36」という、事実上の敗北(注:人民革命党は72議席から36議席に半減した)を喫した。

エンフバヤルは、選挙結果の総括を回避しつつ、事実上の敗北の原因を、「祖国民主同盟」による選挙違反に求め(注:事実であったが)、「貧富の差の拡大」を認めなかった。

彼は、2005年の大統領選挙では、さすがに「貧富の差の拡大」には言及せざるを得なかった。だが、その原因がゾド(雪害)による家畜数の減少であると強弁し、IMF路線の経済成長政策を擁護していた。

2005年10月、第1回国内投資家会議でのエルベグドルジ首相(当時)のパフォーマンス(官僚主義と汚職追放宣言)、税関庁長官の汚職容疑での逮捕、2006年1月、エルベグドルジ大同盟政権の崩壊、М.エンフボルド政権の成立、という現代史の流れがある。

М.エンフボルドは、2006年1月、人民革命党主導による政権の首班となった。

М.エンフボルドは、「貧富の差の拡大」、「銅・金世界価格上昇による国家歳入増」(注:2006年にはモンゴルの歴史上初めて、国家歳入が歳出を上回った。すなわち財政黒字を計上した)を背景に、「貧困家庭と児童・青年への援助金供与」、「公務員給与増額」、という社会主義的経済政策を採用した。

この経済政策は、IMFの嫌うところであるのはもちろん、エンフバヤルによる従来の経済成長政策とも対立する。

「IMF路線による貧富の差の拡大」は、市民運動の高揚、モンゴル民主同盟の分裂、そして、大統領と首相という二大権力者の対立を生み出しているのである(注:適宜、詳細な解説を省略したところがある。別項の「モンゴル時評」を参照してほしい)。(2007.09.09)

トップへ
トップへ
戻る
戻る
次へ
次へ