С.バヤル首相辞任(2009年10月28日)

С.バヤル首相は、2009年10月26日、自らの健康問題のために(注:モンゴルの風土病とも言うべきC型肝炎)辞任したい旨を大統領と国家大ホラル(国会)議長に申し入れた(ウヌードゥル新聞2009年10月27日付)。

そして、国家大ホラル(国会)内での多数派である人民革命党は、2009年10月28日、後継首相候補にСv.バトボルド(現外務大臣)を指名した(ウヌードゥル新聞2009年10月29日付)。

これを受け、国家大ホラル(国会)は、2009年10月28日、С.バヤル首相辞任を承認した(ウヌードゥル新聞2009年10月29日付)。

С.バヤルは、国家大ホラル(国会)での辞任演説において、「中途で辞任することは残念だ」と述べ、さらに、自ら組織した連立政権の維持と、開始した政策を継続することを求めた。

デンベレル国家大ホラル(国会)議長は、С.バヤル政権が、1)オユトルゴイ鉱山投資契約調印、2)「開墾V」実施、3)経済混乱緩和策の導入、という成果を収めた、と発言した(ウヌードゥル新聞2009年10月29日付)。

これに続いて、国家大ホラル(国会)は、2009年10月29日、Сv.バトボルド現外務相を首相に任命した。同時に、彼は外務相兼任を解かれた(ウヌードゥル新聞2009年10月30日付)。

さて、このС.バヤルの首相辞任は、彼の健康問題から来ているだけに、やむを得ないものがある。何度も筆者が指摘したように、モンゴル現代史にとってС.バヤルは必要な人物である。だから、С.バヤルができるだけ早く健康を回復することを願うざるをえない。

С.バヤル政権の成果については、デンベレル国家大ホラル(国会)議長の発言に尽きる。

С.バヤル辞任の背景について補足すると、С.バヤルの健康問題であることも自明であるが、民主党系「ウドゥリーン・ソニン新聞」論説委員Г.ダシレンツェンは、ロシア側の強制である、と述べている。すなわち、ロシア側がウラン鉱山利権の減少をС.バヤルに抗議していたのだと彼はその理由を説明している(ニースレル・タイムズ新聞2009年10月29日付)。

これは、「白」を「黒」というような論難であって、ロシア側がС.バヤル辞任を深刻に受け止めているというのが事実に近い。

最後に、С.バヤル辞任の今後の影響についてであるが、Сv.バトボルドが後継首相に指名され、彼は、С.バヤル政権の政策を継承することを表明した。

従って、今すぐには、モンゴルの政治状況に変化はないと思われるが、長期的には、この人民革命党と民主党の連合政権が継続するかどうかが、今後の問題となる。

人民革命党内では、エンフバヤル元党首などに代表されるように、単独政権を要求する(注:国会法ではそのとおりであるが)意見もある。

最近、人民革命党「13人衆」(注:オドバヤル、アルビン、テルビシダグワ、ムンフオルギル議員ら)は、国家大ホラル(国会)内で「26人衆」を目指している、という。彼らはエンフバヤル派である(ウヌードゥル新聞2009年10月19日付)、という報道もあって、「26人」になった場合、人民革命党会派議員46人の過半数を占めることになる。

また、民主党内でも、反アルタンガダス派は、連合政権に入閣した民主党出身大臣の辞任要求を出す可能性も否定できない。

民主党内で、アルタンガダス派に対抗するべく、「エルデネ・ホビ」派が結成された(ウヌードゥル新聞2009年10月24日付)。この派閥にエルベグドルジも加入したらしい。このことは、憲法違反であって、大統領は、不偏不党であることが憲法に規定されている。エルベグドルジがこの連合政権解体を虎視眈々とねらっている、と言うべきである。

であるから、今後のモンゴル政治状況は平穏であるとは必ずしも言い切れず、かつてのМ.エンフボルド人民革命党主導政権期(2006〜2007年)の政治混乱が繰り返される懸念も否定できない。(2009.11.01)

(追補)首相に就任したСv.バトボルドについて。

スフバータリン・バトボルドは、1963年、ウランバートル市生まれ。

父ダムディニ・スフバータルと母ヤンジンは、スフバータル・アイマグ、スフバータル・ソム出身。彼らは1950年代および1960年代に高等教育を受けた、頭脳優秀な牧民たちであって、社会主義モンゴルの屋台骨を支えていた。

母ヤンジンは医師(注:父の「スフバータル」と言う名前は、モンゴル人民革命(1921年)の指導者であった故郷の英雄の名にちなんでいる。母の「ヤンジン」が「スフバータ(ト)ルの妻「ヤンジマー」と同音であるところも偶然の一致とは思えないほどである)。

Сv.バトボルドは、成績優秀だったので、モスクワ国際関係大学(注:社会主義国の中の優秀な子弟が入学した大学)に留学し、経済学を専攻した。

彼は、卒業後、モンゴルに帰り、「モンゴル・インペクス・ネグデル(協同組合)」の輸出担当局長にまで昇進し、ビジネスの経験を積んだ。

Сv.バトボルドは、1990年初頭の経済混乱期に、「担ぎ屋」をした後、「アルタイ・トレーディング」社を設立した。

この会社は、ドイツから植物油を輸入し、韓国へ鹿の角を輸出した。また、最初に石油の輸入を始めた。

ユーゴの建設したホテルが1996年に行き詰まり、その後の民営化で買い手がなかったので、彼はこのホテルの競売に応札して落札した。このホテルは、チンギス・ホテルと名付けられた。しかし収益は少なかった。

そこで、彼は、米国企業から「ボロー・ゴールド」社を買収した。当時の民主同盟連合政権は、鉱山外資企業に対し、最初の5年間免税、次の5年間50%免税、という売国的政策を推進していたが(注:当時の首相はエルベグドルジ)、彼はこの状況を利用して多大の収益をあげた。

(注:この「ボロー・ゴールド」社については、少なからず問題がある。)

また、韓国SKグループと携帯電話事業の「スカイテル」社(スカイ・グループが60%、アルタイトレードとMCSが30%の株を所有)を設立した。「スカイテル」は、2000年時点で、年間収益200万ドルをあげた。

チンギス・ホテルの「不振」を補填すべく、韓国と共同で、同ホテル西(裏側)に「スカイ・ショッピング・センター」が設立された。

さらには、カシミア原毛加工をめざし、「アルタイ・カシミア」を設立した。

Сv.バトボルドは、タバントルゴイ鉱山(注:コークス炭産出)の採掘権を持つ「エネルギー・リソース」社の主要株主でもある。

このように、Сv.バトボルドは、典型的なモンゴル・ビジネスマンの一人と言っていいだろう。

その後、彼はエンフバヤル首相(当時)の求めで、外務副大臣をした(2000〜2004年)。さらに、2004年以降、国家大ホラル(国会)議員となり、2004〜2006年に、産業貿易大臣として入閣した。そして、上述のように。2008年から、С.バヤル政権の外務大臣を務めていた。

エンフバヤルはかつて、次期首相をМ.エンフボルド、Сv.バトボルド、ムンフオルギルで競わせる、と述べていたが、前二者はその通りに首相になった(注:ムンフオルギルも今回リストアップされていたが、自ら辞退した)。

Сv.バトボルドの性格は、「外柔内剛型」であるといわれている。文武両道(国際数学物理オリンピックで銅メダル、モスクワ留学中陸上競技選手)をこなす人物であるらしい。

彼は、自らを表して、「私はどちらかと言えば清廉潔白な人物である」、と言っている。

筆者は、この言葉が今後、行動で証明されることを期待する(注:参考文献、Ж.Батсvх, О.Чинзориг, Монголын Авъяаслаг Бизнесмэнvvдийн Нууц, Улаанбаатар, 2007)。(2009.11.08)

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