
国家大ホラル(国会)、議長を解任せず(2007年04月13日)
この間、国会は休会中だったので、2007年春期国家大ホラル(国会)が開会されるや、2007年4月10日、国家大ホラル(国会)行政制度常任委員会は、ニャムドルジ国家大ホラル(国会)議長問題を審議した。
Ж.ビャンバドルジ憲法裁判所委員長が出席し、裁定結果を説明した後、質疑応答が始まった。
人民革命党委員たちは、具体的にどの部分が改竄されたのか、と質問したのに対し、ビャンバドルジ憲法裁判所委員長は、具体的に逐一いうことはできないが、国家大ホラル(国会)が採択した「鉱山法」を改竄したことが間違いである(注:憲法違反という意味であろう)、と答弁した。
当事者として出席していたニャムドルジは、法によって(注:国家大ホラル(国会)手続規則のことであろう)与えられた権利を行使した、と弁明した。
民主党側は、総会でニャムドルジ議長解任案を採決することを提案した。
これに加えて、С.バヤルツォグト(民主党)は、憲法裁判所がニャムドルジ議長罷免裁決を出さなかったのは政治的である、と主張した。
だが、結局、民主党の要求するニャムドルジ議長罷免案は支持されなかった。そして、改竄箇所を修正する作業部会が作られることになった(ウヌードゥル新聞2007年4月11日付)。
これを受け、国家大ホラル(国会)総会は、2007年4月13日、「ニャムドルジ議長問題」を審議した。
民主党側は、憲法裁判所がニャムドルジ解任裁決をしなかったことが政治的である、と再三にわたって非難した。これに対し、憲法裁判所委員長Ж.ビャンバドルジは、ニャムドルジ解任の可否は憲法違憲判断にはなじまず、国会の専任事項である、と答弁した。
採決結果は、「議長の改竄修正」に賛成が37人、反対(注:議長解任に賛成ということ)が19人であった。この結果、議長は解任されず、改竄箇所修正作業グループに、Л.ガントゥムル(民主党)、Ц.ムンフオルギル(人民革命党)が任命された(ウヌードゥル新聞2007年4月14日付)。
さて、問題の根源は、最高立法機関である国家大ホラル(国会)によって採択された法令が、唯一最高のものである、という認識が侵害されたことにある。
ところが、国家大ホラル(国会)総会規則では、議長による修正を認めている。憲法裁判所は、当然のことながら、憲法の規定を準拠にして、ニャムドルジ議長による改竄を違憲とした。一方、ニャムドルジ議長は、国家大ホラル(国会)総会規則に明記された権限を行使した、と主張した。
従って、国家大ホラル(国会)は、憲法裁判所裁定を承認するか否か、を審議すべきであった。承認するのであれば、国家大ホラル(国会)総会規則を修正しなければならなくなるであろう。承認しないのであれば、この規則の合憲性を立証しなければならないであろう。
ところが、この手続きを経ることなしに、ニャムドルジ議長解任要求案が出された。
もちろん、ニャムドルジが憲法裁判所裁定を尊重して(注:春期国家大ホラル[国会]開会に際して、民主党の要求を「尊重」して、議長職権をルンデージャンツァン副議長に委譲したように)、自ら辞任することもあり得た。だが、ニャムドルジはそうしなかった。
民主党、人民革命党(ニャムドルジ)は、双方とも、その意味するところは逆であったが、この「憲法裁判所裁定が政治的である」と、声高に言い張った。これは、見当違いも甚だしい。
これに加えて、報道機関は、ニャムドルジ解任が「民主党に有利か、人民革命党に不利か」、という視点で、様々なシナリオを書き立てた。
こうして、論点がそれ、曖昧になっていった。
ところが、先の「行政制度常任委員会」で、老練なというか狡猾なというか、一委員が(注:Т.バダムジョナイ委員。アルディン・エルフ新聞2007年04月11日付参照)改竄箇所を修正する作業部会設立を提案し、大方の支持が得られ、国家大ホラル(国会)総会で、この決議案が採択されてしまった。
ニャムドルジ議長は、採択された法案の「修正」行為が「違憲」だとは認識していないから、今後もこうした事態が起こるであろう。
「愚かな76人(注:議員のこと)」は、2008年の選挙のことが常に念頭にあるから、こうした曖昧な採決をしてしまったが、その選挙結果が彼らの思惑通りになるものでは決してない。(2007.04.15)
(追補)ニャムドルジ議長による採択法案改竄行為に関して、ニャムドルジ議長は、2007年4月18日、17の採択法案の「改定」資料を証拠として開示した。これらは、1991年からのもので、ニャムドルジが個人的に保存していた。これらの法案の中には、「刑法」(1991年)、「裁判所裁決に関する履行規則」(1994年)、「保安規則」(1994年)、「デモ集会規則」(1994年)、「民法」(1994年)などが含まれていた(ウヌードゥル新聞2007年4月19日付)。こうしたことから見ると、彼の改竄(改訂)行為は、モンゴル憲法(1992年)発効以前からなされてきたことがわかる。これは、モンゴル法制史の一つの特徴を示すもので、別個の検討課題となるであろう。(2007.04.22)
