
М.エンフボルド政権打倒運動について(2006年06月21日)
人民革命党は、エルベグドルジ政権を力ずくで引きづりおろし、
М.エンフボルド政権を作った。ところが、このМ.エンフボルド政権が批判にさらされている。
ウヌードゥル新聞(2006年06月21日、22日、23日付)の報道するところによれば、このМ.エンフボルド政権打倒運動は、野党が主導したのではなく、人民革命党出身議員によるものだという。
すなわち、デンベレル、シャラブドルジ、オチルフー、ラシなどの人民革命党出身長老議員がМ.エンフボルド政権打倒を主張し始めた。
この打倒運動の原因として、1)М.エンフボルド首相が貯蓄信用組合調査グループを組織したことに対する不満、2)所得税を一律10%にする新所得税法案が国家大ホラル(国会)で審議採択されたが、この法案にМ.エンフボルド政権は反対したこと、3)大統領政府樹立を主張している人々による、国家大ホラル(国会)評価を低下させようとする陰謀(М.ゾリグト議員談)、などが指摘されている。
こうして、「(ニャムドルジ議長が提起し)人民革命党長老議員デムベレル、ラシ、シャラブドルジ、オチルフー、(................)さらに祖国党の若手議員エルデネブレンが加わり、それに、民主党のバヤルツォグトらアルタンガダス・グループが同調して、19人の議員となった。」(ウヌードゥル新聞2006年06月22日付)
また、人民革命党幹部会が、2006年06月21日、党長老の要請で開会され、その中で、М.エンフボルド政府の「消極的な行動」に批判が集中した。М.エンフボルド人民革命党党首は、この問題を「大モンゴル国800年」記念祭、およびナーダム後まで棚上げにする、と答えた(ウヌードゥル新聞2006年06月23日付)。
この倒閣運動に対し、オヨン議員(市民の意志党党首)は、政府を変えても何も変わらない、「臨時選挙実施」を要求する、と語った(ウヌードゥル新聞2006年06月21日付)。この発言には道理があるだろう。
この一連の動きに対して、歴史的にみれば、М.エンフボルド政権の政策評価の問題があると、筆者は思う。
つまり、モンゴルはIMF路線(PRGF=貧困緩和発展戦略、実態と名目がそぐわないが)によって国際機関、および「支援」国からその経済政策が規制されている。2000〜2004年のエンフバヤル政権は、その路線を忠実に堅持した。その結果、「貧富の拡大」を招き、2004年国家大ホラル(国会)議員選挙で、「子供に1万トグルグ支給」という「幻想」がモンゴル国民を「幻惑」させ、国家大ホラル(国会)における「究極の議員バランスの均衡状態」をもたらした。
エルベグドルジ政権を引きづりおろしたМ.エンフボルドは、「子供に3000トグルグ支給」、「公務員給与30%増額」などの「社会主義的政策」(注:国家による扶助という)を決定し実施した(注:すなわち、上記の「М.エンフボルド政府の『消極的な行動』」とはその政策を指す)。これがIMFの不評を買った。
この事態を憂慮した長老議員たちは、若いМ.エンフボルドを(注:国政経験がない)牽制した。(2006.06.25)
(追補)エンフバヤル大統領は、2006年10月31日、IMF路線維持の見解を国家大ホラル(国会)での演説再度明らかにした。
彼は、その中で、1)道路、電力部門への投資の継続、2)地方発展計画、3)国有財産の適切な競売、4)就業機会創出による貧困の克服(2007年を「就業機会創出の年」にすることを提案)、5)国家による鉱山開発、6)国民に国家予算歳入分を安易にばらまくべきではない、などと述べた。
特に、4)と6)はその主要な論点で、IMF路線そのものであった(ウヌードゥル新聞2006年11月01日付)。(2006.11.11)
