「民族新党」結成(2006年5月19日)

モンゴルには現在、22の政党がある。250万の人口数に比して(約180校の大学と同様に)、この数は多いようだが、このことは、モンゴル人の政治と教育に対する関心の度合いが大きいことを示すだろう。この数がもう1つ増加することになった(注:それに加えてさらにもう一つ[健全な市民のための党が]増える予定である)。

エンフサイハンらは民主党を除名されてから新党結成を目指し、その党名を「民族新党」とした。そして、「民族新党」結成大会が、2006年5月19日にチンギス・ホテルで開かれた。その内容を箇条書風に要約する。

創立提唱者のエンフサイハン(副首相)は、綱領文書「モンゴルの将来と民族新党」を読み上げた(注:全文はウヌードゥル新聞2006年05月22日付に掲載されている)。

Ц.ツォルモン(外務副大臣)は、同党の「民族主義」が「ノーツ・トブチョー(元朝秘史)」に依拠する、と演説した。

Д.デルゲルツォグトは、「無責任、公正を欠くジャーナリズム、自己顕示、噂話、喧嘩、非難中傷、犯罪、暴力」が社会に蔓延している、と演説した。

21世紀は中国の世紀であるばかりでなく、モンゴルの世紀にしよう、という演説もあった。

「9ヵ条の呼びかけ」を発表した。すなわちそれは、「生活権、人権、安全保障、選挙権、公正、教育権、信頼、労働権、自然環境保護」の尊重である。

幹部会員として、М.エンフサイハン(副首相)、Ж.バトホヤグ(国家大ホラル[国会]議員)、Ц.ツォルモン(外務副大臣)、Ж.ナランツァツラルト(建設・都市整備相)を選出した。彼らが1年交替で党首を務める(ウヌードゥル新聞2006年05月20日付)。

この「民族新党」の現在の党員数は、約2000人で、大学教員や前民主党員が多い(ウヌードゥル新聞2006年05月19日)。

「民族新党」は、設立準備過程の当初は、「民主党」を脱党する人々の受け皿として、「民主公正党」としていたが、党綱領作成によって、党名を「民族新党」に変更した。これは、同党の特徴が「民族主義」、「富裕な中間層の育成」、「大統領制導入」(ウヌードゥル新聞2006年04月10日および04月17日付参照)にあることからきている。

まず、この「民族主義」については、22番目に登場した、かのグンダライの「国民党」も「民族主義」を党綱領に掲げている。

モンゴルでは貧富の差が拡大し、国民の財産である「地下資源」がアイバンホー・マインズ社などの外資企業に蹂躙されている、という意識が高揚している。また、グンダライの「国民党」についての「時評」で書いたが、一部の若者たちが中国レストランを襲撃する事件(注:2005年11月26日に起こった。2006年04月25日、同じくチンゲルタイ区の中国人経営の中国料理レストランがモンゴル人によって襲撃された[ウヌードゥル新聞2006年04月27日]。)も起こっている。

こうした「民族主義」は、拝外主義に転化する危険性を内包している。

「民族新党」のもう一つの支柱である「中間層」は、モンゴルでは萌芽的である。彼らが「民族主義」を賞揚したとき、これも拝外主義に転化するだろう。

モンゴルの歴史をゆがめる最大の元凶であるIMFは、最近、モンゴルが非「市場経済」に向かっている、と非難した(ウヌードゥル新聞2006年05月03日および05月15日付参照)。私見では、「市場経済化」こそ危険であるが、それとは反対の意味での危険性を包含しつつ、ともかく「民族新党」は旗上げられた。

この新党が(国民党とともに)モンゴル政治において、どのような位置を占めていくのかを見まもらなければならないだろう。(2006.05.21)

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