モンゴル地下経済の発生とその形態(2004年09月10日)

2004年国家大ホラル(国会)議員選挙の一つの争点が、「貧困」問題に対して各党、同盟がどんな解決方法を用いるか、ということであった。人民革命党は新婚家庭に1回限りの50万トグルグ支給、「祖国・民主」同盟は毎月子供一人に1万トグルグ支給、といういささか奇異な政策実施を公約した。この公約の実施が、選挙後の各陣営の政治行動を規制している。

この「貧困」問題は、基本的には、拙速な資本主義導入によって生み出されたものであって、その方法の放棄以外には根本的な解決方法はない。

だが、短期的には、この発生原因を究明することもまた、重要である。

特に、2000年以降、モンゴルの都市(ウランバートルなど)では、街頭や店頭に物資が急激に増え、店舗が増殖し、ビル・アパートの建設が進み、郊外には「ハシャー」(固定家屋)が山の上まで伸び、車の洪水となっている。

一方で「貧困」緩和が声高に叫ばれ、一方で物資があふれかえっている。この差異はどこから来るのであろうか。

これを見る一つのカギは、国家経済に占める割合が30%であるとも言われる「地下経済」である。

この「地下経済」を研究調査したナランツェツェグ(Y.Наранцэцэг)は、『地下経済』( Далд эдийн засаг, Улаанбаатар, 2002)という著書で、興味深い指摘を行っている。

ナランツェツェグによれば、1989年から2002年までに、物価が350倍増加したのに対し、平均給与は69.2倍増加したのみであった。これでは、モンゴル国民の生活は破綻する。だが、この差を埋めるべく、彼らは地下経済に従事し、その差異を埋めてきた、という(同上書91−92頁)。

そして、モンゴルにおける地下経済発生の原因として、1.失業、2.官僚主義、3.政治監査・民主主義の欠如、4.法の不備、5.税負担、6.消費者物価変動、などの存在を列挙している。

これらは、もちろん、筆者が先に指摘した「拙速な資本主義的手法」の導入によってもたらされたものである。1989年代末から実施され始めていた手法(経済の国際化、私的小経営や競争の承認、言論の自由などの民主主義の導入、慎重な経済・政治手法の実施など)を継続しておれば、回避できたであろう。さらに、IMFなどの国際機関および「支援」国の「干渉」(「貧困緩和調整能力」プラン、および援助・融資など)を排除できておれば、政治的経済的独立も達成できていたであろう。

いずれにせよ、モンゴル国民は(政治指導部ではない)、この「政治・経済混乱」に対処することを余儀なくされた。ナランツェツェグの研究によれば、その対処の形態は、2つあるという。1つは、いわゆる「インフォーマル・セクター」への流入。もう1つは、「不法部門」の形成である。

前者の形態には、1.食品、2.服飾、3.食品、日用品販売、4.塗装、5.修理、6.製靴、7.靴磨き、8.床屋、9.家事手伝い、10.子供の世話、11.手工芸、12.タクシー、13.荷車引き、14.街頭売り、15.両替、16.原材料収集、17.飲料作り、18.天然資源採掘、19.雑役などである。

後者の形態には、1.背任、2.物品横領、3.仲介、4.許認可、5.闇生産、6.不法売買(酒類、麻薬)、7.ビザ取得、8.不法乗っ取り、9.暴力、10.売春、ぽん引き、11.贈収賄およびその仲介、12.脱税、13.文書偽造、14.禁制動物捕獲売買などがある(同上書95−96頁)。

モンゴルがここまで来てしまったからには、この事実を冷静に分析し、「拙速な資本主義的手法」を放棄し、この「地下経済」排除を慎重に実施する以外に、方法はないであろう。

そして、最も重要なことは、モンゴルの歴史的過程・伝統をふまえて、政治・経済政策を実施しなければならないことであろう。諸外国が自国の経験を押しつけることは論外であるが、モンゴルもまた他国の経験の物まねは生産的なものではない。(2004.09.10)

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