Х.ホランの立候補届不受理問題(2004年05月16日〜06月03日)

Х.ホランは、「祖国・民主」同盟から国家大ホラル(国会)議員選挙に立候補した。彼女は、民主同盟連合政権時代(1996〜2000年)の国家大ホラル(国会)議員で、2000年には、民主同盟連合政権の腐敗・失政に反対し、С.オヨンたちと民族民主党から脱党し、市民の意志党を結成した。その後、2004年には、市民の意志・共和党を脱党し、民主新社会党に合流した。筆者は、何度も指摘するように、この動きは、オヨン封じ込め策動の一つと見ているが、彼女自身は、その理由を明確には語っていない。

このホランは、「祖国・民主」同盟から、第57選挙区での立候補権を得た。この選挙区は、ウランバートル市バヤンズルフ区にある。ところが、このバヤンズルフ区選挙管理委員会はホランの立候補届けを受理しなかった。そのため、彼女は国家大ホラル(国会)議員選挙に立候補できない、という事態が一時、生じた。この経緯を「ウヌードゥル」新聞(2003年05月21、22、28、31、06月01、07日付、「ウドゥリーン・ソニン」新聞2004年05月25、06月03、04日付け、「ウランバートル・ポスト紙電子版」2004.05.28、「モンゴルの一日」新聞2004年第23号)を基に、まとめてみよう。

5月16日。Х.ホランは、「祖国・民主」同盟からの立候補権を獲得したが(注:立候補者選出期間は4月27日から5月17日まで)、渡米のため、代理人にボルガン(注:故С.ゾリグの妻)とビャンバスレンを指名した。彼らが第57選挙区(バヤンズルフ区)選挙管理委員会に行き、ホランの立候補届けを行おうとしたが、届出文書が不備(選挙法第23条第2項、「党、同盟の承認文書と、本人の署名による経歴書を提出しなければならない」)で、当該選管は受理できない由を通知した。

5月19日。バヤンズルフ選挙管理委員会は会議を開き、ホランの立候補届け不受理を決定した。

5月21日。バヤンズルフ選挙管理委員会は再度会議を開き、「不受理決定」を委員の満場一致で再確認し、ホランにその由を通知した。同時に、当該区選管は、選挙管理委員会にこの決定を上申した。選挙管理委員会は、この決定を承認した。なお、この種の決定は1992年以降初めてである。これに対し、「祖国・民主」同盟は、この決定が国民の立候補権の侵害である(選挙法第1条第1項、第2条第1項、第4条第1項に明記)、として選挙管理委員会に「決定取り消し」を要求した。

5月26日。この決定を知らされたホランは、急遽、米国から帰国し、選挙管理委員会に行き、提出文書の修正(自筆の署名)を行う由を申し出たが、選挙法第26条第1項(立候補届出期限)を理由に拒否された(注:立候補届出期限は5月27日であるが、文書の正偽検討のため5月17日に締め切られる)。

5月27日。ホランは、この決定を不服として、選挙管理委員会の所在地(チンゲルテイ区)ではなく、バヤンズルフ区裁判所に不服申し立てをした(注:一説には、当該裁判所長は民主党系だという。そのためか、この裁判長は、裁定を下す一日前に、直接本人に会って、この決定取り消しの予定を述べている)。

6月3日。バヤンズルフ区裁判所は、この決定が憲法に定められた国民の選挙立候補権の侵害であるとして、無効にし、ホランの立候補権を回復させる裁定を下した。選挙管理委員会は、この裁判所裁定を受け、バヤンズルフ区選挙管理委員会の決定を取り消した。

こうして、ホランは立候補権を獲得した。ところで、このように届出文書不備による、立候補届出不受理決定は、339人が全国で立候補届出をしたうち、青年党62人、「祖国・民主」同盟1人(注:ホランをさす)、緑の党1人、伝統統一党2人、自由党2人、共和党4人、無所属4人にのぼる。

さて、この問題をどうみるか。

まず第一に、モンゴルでは提出文書不備は日常茶飯事である。大抵はその場で修正して一件落着となる。ところが、モンゴルで新憲法が制定され(1992年)、その新憲法下で三回(1992、1996、2000年)の国政選挙が行われた。世界各国から選挙監視団が来て(よけいなお世話ではあるが)、選挙を「監視」した。今回の選挙(投票日は2004年6月27日)にも同様の措置が執られている。そこで、各選挙区選挙管理委員会は、選挙事務の厳密化(順法化)を推進した。そのため、ルーズに考えた各候補者76人は、届出文書不備で不受理になった(注:その後、選挙区では修正に応じた管理委員会もあるようだ。これもモンゴル的ではあるが)。

今後の国政を左右する選挙に立候補するのに、渡米してしまうホランも問題あり、といえるが、このバヤンズルフ区選挙管理委員会は、「選挙法」の規定通りに事務を進め、「不受理決定」を行ったのである。

第二に、与党人民革命党による強権発動ではないか、という見方もある。だが、今回の事態に関してはそれはないようだ。当該選管の構成は、人民革命党員6名、同盟側2名、非党員4人である。だが、この「不受理決定」は満場一致で行われている。人民革命党機関紙「ウネン」も、「ホラン立候補不受理問題」の背後に人民革命党がいる、という「祖国・民主」同盟からの非難は当たらない、というС.スレンの署名文を掲載している(UNEN2004.06.04)。むしろ、「祖国・民主」同盟側が、選挙情勢不利を覆すために、政治化しようとしたということはあり得るだろう(注:このバヤンズルフ区は、実は、筆者のアパートのあるところで、この「政治化」に危機感を抱いた人民革命党側は、自党候補[ガンディ]のポスターとビラを各戸配布していた。その迅速さと動員力には少し驚いた)。

第三に、これが最も根本的なのであるが、「選挙法(=国家大ホラル議員選挙法)」の不備が指摘できる。元来、この「選挙法」は改正される予定だった。特に、「ショーを伴う演説集会の禁止」(注:今回は改正されなかったので、大々的なショーが行われ、全国的に有名な歌姫が膨大な出演料を手にした、という記事が出ている)、「選挙供応の禁止」、「選挙管理委員会の権限強化・中立化推進」、「選挙区・選挙方法改正」、などが盛り込まれる予定であった。だが、6ヶ月前の選挙法改正禁止、という条項のため、改正が断念された(これに関しては以前にも書いた)。

一方で、憲法の精神を盛り込んだ、「国民の選挙に立候補する権利」を明記しながら、「立候補届出文書不受理」の条項もある、という矛盾が、この選挙法には存在する。さらに、モンゴルには、伝統的な「慣習法」の精神も生き続けているから、「順法精神」が希薄になる。この点を「選挙法」では充分に考慮して、改正しなければならなかった。

また、物事は直前にならなければ決まらない、という習慣があり(それはそれでモンゴル共同体精神の体現でもあるのだが)、結局は、この「選挙法」の不備は改正されないまま、現行「選挙法」で2004年国家大ホラル(国会)議員選挙が実施されることになったのである。

この問題は、単に党利党略から取り扱うのではなく、モンゴルの「真の独立」のための試金石にしてほしいものだ。(2004.06.08)

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