
選挙法改正問題(2004年03月10日)
2004年国家大ホラル(国会)議員選挙が間近に迫った時期に、選挙法改正問題がモンゴル国内を揺るがしている。
2003年度末に、国家大ホラル(国会)・行政機関委員会(委員長デンベレル)が選挙法改正案作成に着手していた。この改正案は8ヶ条からなる。
この改正案について、政府系のゾーニー・メデー新聞(2004年03月10日付、Т.エルデネ署名論説)は、その骨子を3点にまとめている。
それによれば、(1)選挙手続の改正、すなわち、選挙運動期間を75日から60日にして、選挙費用を少なくすること、選挙違反者の監視(相手陣営を不当に攻撃、金品供応、華美なショー開催などの禁止)。
(2)1992年に行われた大選挙区制にもどす。その理由は、政権の変動による政治の不安定化、汚職、選挙区の利益のみの政治家の出現、予算審議無視などを予防し、国政レベルの政治家の出現を促すことにある。
(3)負債の未返済や脱税者の立候補禁止、これは2000年に行われた地方議会選挙で実施済みであって、憲法17条に明記する「国民の納税義務」を根拠にし、政治家は納税しているべきであり、負債を持つ政治家が法令制定に影響を及ぼす危険性を未然に防ぐためである、としている。
これに対し、民主党系のウドゥリーン・ソニン新聞(2004年03月10日付、Ч.オラーン署名論説)は、この改正案は、与党人民革命党の利益のために作成されたもので、有権者の権利を擁護しておらず、また、市場制度にも合わない、として反対している。
この問題をどう見るか。
ゾーニー・メデー新聞の指摘する、(1)選挙手続の改正は、1992、1996、2000年の選挙での弊害を反省して作成されたもので、道理がある。特に、選挙期間の短縮は、広大な国土を考慮したものであるが、道路事情の最小限の改善、国民のウランバートルへの集中などによって、長期間の選挙遊説は費用のムダである、ということである。
同じく(2)大選挙区制への回帰は、1992年の選挙では、例えば、ヘンティー・アイマグ(第18選挙区)では、16人が立候補して、ビャンバスレン(伝統復興党・前首相、辞退により次点のガン・ウルジー[人民革命党]が繰り上げ当選)、Д.ガンボルド(民族民主党)、ガンビャンバ(人民革命党)の3人が当選した。1996年には小選挙区制になり、第49選挙区でД.ガンボルド(民族民主党)、第50選挙区でトゥブシントゥグス(民族民主党)、第51選挙区でエンフトヤ(社会民主党)が当選した。2000年の選挙も小選挙区制で、第49選挙区でアルビン(人民革命党)、第50選挙区でガンビャンバ(人民革命党)、第51選挙区でフレルスフ(人民革命党)が当選している。
1992年の大選挙区制(注:26選挙区から76人が選出された。詳しくは、Д.Батваатар[зθвлθх], Монгол Улсынын Их Хурлын Архивын Хθмрθг Vvсгэгчийн Тvvх/1990-2000/, Монгол Улсынын Их Хурлын Тамгын Газар, УлаанБаатар, 2002)の下で、ビャンバスレンやガンボルドが国政レベルの政治家であるかどうかはさておき(前者は経済混乱を引き起こした張本人、後者はその時の副首相)、一応国政レベルではあった。ガンビャンバは以後、議員を2期勤めることになった。それが、小選挙区制になり、1996年と2000年で、所属政党が全く逆になった(民族民主党と社会民主党は民主同盟連合を結成し与党となり、政権を担当した)。
であるから、これも説得力のある指摘である。
問題なのは、(3)である。より具体的に言えば、それは、選挙法改正案第6条27項、すなわち、立候補者資格として、(a)銀行からの融資に期限を過ぎた債務がない、(b)税の滞納がない、(c)有罪判決を受けていない、(d)公務員ではない、ということが要件としてあげられている。
この資格を満たす立候補(予定)者はさておき、逆に、この要件を満たさない立候補(予定)者の中に、エルデネバト民主新社会党党首、ジャルガルサイハン市民の意志・共和党副党首が(b)を満たさない。さらに、ビャンバドルジ名誉毀損および国家機密漏洩問題について、エンフサイハン民主党党首、グンダライ民主党副党首がその要件を満たさなくなる可能性が十分ある。さらに、ゾリグ暗殺事件首謀者の名前を首相エンフバヤルは報告を受けている可能性があるから、適当な時期に公表され、逮捕されれば、エルベクドルジ、バト・ウールなどもその範疇に入ってくるかもしれない。
すなわち、この選挙法改正案が採決可決されれば、「祖国・民主」同盟の「大物」たちがそろって政界から消えることになる。
この「危険性」を察知した、民主党系ウドゥリーン・ソニン新聞が、ほとんど何の根拠も提示せず、「人民革命党の利益のために作成されたもの」と書いたのであった。
確かに、С.オヨンの言うように、「与党が絶対多数を占めている時期に、そして選挙が間近になっている時期に行うべきではない」(ウドゥリーン・ソニン新聞(2004年03月10日付)、といえるかもしれないが、これは、一面では、物事が直前にならないと決まらない、というモンゴル的性格の典型でもある(もっとも、この選挙法改正案は、実は民主同盟連合政権時代に論議されていたものであった)。
だが、モンゴルにおける民主化運動を後退させ、経済混乱を引き起こし(1990年)、それを再現させ(1996年)、さらには、国有財産を簒奪して富裕化した政治家たちが政界から(あるいは歴史から)姿を消し、国有財産を民営化によって入手し、一時は、大きく成長させたものの、結局は、国際援助機関に過度の期待を抱き、債務にとらえられた、一連のビジネスマン(資本家たち)が後退するのは、歴史の必然である。
この過程は、人民革命党についていうならば、1990年代初頭に、旧世代の政治家たちが姿を消し、1996年の野党化で、左派中道路線が確立され、新指導部を生み出した歴史過程の再現でもあろう。
従って、この選挙法改正案が、経済的独立を確立させ、民主的で、国民の意思に対応したモンゴルを生み出すための、新しい政治家の出現を、現在の野党に促すのであれば、肯定的評価を下すに足るものであろう。(2004.03.14)
