三角同盟成立、その後(2004年02月27日〜04月05日)

市民の意志・共和党が「祖国・民主」同盟に参加して、「三角同盟」が成立した(2004年02月23日)。筆者はそのキー・パソンとして、ジャルガルサイハンとゴンチクドルジを挙げた(「民主党、民主新社会党、市民の意志・共和党による「三角同盟」成立(2004年02月23日)」参照)。特に、市民の意志・共和党副党首ジャルガルサイハンの行動が「三角同盟」成立に大きく影響を与えた、と書いた。

ところが、ジャルガルサイハンは、三角同盟成立の四日後、つまり2月27日、記者会見を開き、この「三角同盟」に反対を表明した。

彼によれば、自分たちを欺いてオヨンが三角同盟に参加した、市民の意志・共和党国民委員会はその問題を話し合っていない、自分はその議論(ажиллагаан)には加わっていない、と言いだした(ウドゥリーン・ソニン新聞2004年02月28日付、ウヌードゥル新聞2004年03月02日付)。

つまり、ジャルガルサイハンは自説を留保して、「三角同盟」参加決議に従ったわけではなかったのである。

ジャルガルサイハンは、その記者会見で、三角同盟反対の理由として、「祖国・民主」同盟綱領に賛成できないことを挙げている。

「祖国・民主」同盟綱領には、3本柱がある。それは、ゼロ関税制度(再)導入、20歳以下の子供に月1万トグルグの年金支給、牧民の税金の5年間免除、である。彼は、それに反対なのだという。上の綱領が実施されれば、外国製品が大量に流入し、国民の半数が年金暮らしになり、カシミア収入による裕福になった牧民が所得税を免除される、という事態を招くという(ウヌードゥル新聞2004年03月02日付)。「強力な清朝に征服された中国」になってしまう(ウドゥリーン・ソニン新聞2004年02月28日付)、という。

ジャルガルサイハンは、元来が、独立した自由な市場制度を唱えて、共和党を創設した。確かに、「祖国・民主」同盟綱領とは相容れないだろう。

一方、市民の意志・共和党党首オヨンは、民族評議会(注:国民委員会のこと)の委員たちのうち、85%が(三角)同盟に加わることに賛成した、ジャルガルサイハンも参加した、と述べた(ウドゥリーン・ソニン新聞2004年03月02日付)。

当事者である、この二人の主張は正反対である。

これをどう判断するか。

市民の意志・共和党国民委員会は、その議題として、党内組織問題を話し合っていた。それまで、離脱を主張して、同党国民委員会に欠席していたジャルガルサイハンたちも参加した。国民委員会は淡々と議題が消化されていった。ジャルガルサイハンは、自身の政治生命はおろか経済的に追いつめられているから、分離・離脱は諦めたのであろう。おそらく、それほど真剣にこの会議での議論には加わっていなかったのであろう。その流れの中で、「三角同盟」参加の動議が出され、決議された。ジャルガルサイハンはその流れには抗し得なかったのである。

そして、ツァガーン・サル(旧正月)をはさんで、三角同盟参加決議、三角同盟成立署名、と事態が動いていった。

これを見て、ジャルガルサイハンは事態の重要性に気づいた。おそらく、人民革命党からの接触もあっただろう。丸紅事件では、人民革命党現政府に負い目がある。そこで、彼は、「三角同盟」参加反対、市民の意志・共和党離脱、という最後の賭に出たわけである。

ジャルガルサイハンによるこの行動から、漁夫の利を得るのが人民革命党であるのはいうまでもない(ウヌードゥル新聞2004年03月03日付)。今後の動きが注目される。(2004.03.06)

(追補)ジャルガルサイハンを党首とする「共和党」が、2004年04月05日、最高裁によって登録認可された。これでモンゴルには18の政党が登録されたことになる(ウヌードゥル新聞2004年04月06日付参照)。(2004.04.08)

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