ゾース銀行の国営化とモンゴル・ガザル社社長ミャンガンバヤル(2009年11月27日)

ゾース銀行は、2009年11月19日、国営に移行することを発表した(注:ゾース銀行は、ХААН銀行、商業発展銀行、ゴロムト銀行などに次いで、モンゴルで6番目に大きい銀行。1999年設立。従業員500人。支店数40。主として中小企業向け融資を行っていた。主要株主は欧州再建復興銀行)。


(ゾース銀行。筆者写す)


(「国営銀行」と改称された。筆者写す)

これより先、ゾース銀行経営陣は、貯蓄銀行およびモンゴル郵便銀行との合併を策していたが、主要株主である欧州再建復興銀行をはじめとする6[法]人がこれを拒否していた。このため、ゾース銀行は、モンゴル銀行による国家管理の道を選択した(注:欧州再建復興銀行は、旧ソ連および東欧諸国が「市場経済へ移行」するのを「支援」することを目的とした国際金融機関で、1991年に設立された。加盟国は、欧州共同体諸国、アメリカ、日本、ロシア、東欧諸国など。本部はロンドン)。

現在、ゾース銀行には、600億トグルグの不良債権がある。このため、モンゴル銀行は、ゾース銀行管理チームを結成し、管理に当たっている。

ゾース銀行管理チームは、政府による預金者保護があるから、預金者が動揺しないよう呼びかけている。ちなみに、この不良債権は、モンゴル・ガザル社のものである(ウラーンバートル・ポスト新聞2009年11月24日電子版)。

Б.エンフホヤグ・モンゴル銀行第一副総裁の証言によると、モンゴル・ガザル社は、2008年、ウムヌゴビ・アイマグ、マンダルオボー・ソムのオロンオボート(注:後述のミャンガンバヤルの項参照)の金採掘権を担保にして、ゾース銀行が融資を融資を引き出した。2009年にそれが不良債権化した(注:伊藤忠商事が、アノド銀行、ゾース銀行、ゴロムト銀行に大口の口座を開設している)、という(ウランバートル・タイムズ2009年11月25日電子版)。

(後注:もっとも、モンゴル・ガザル社社長ミャンガンバヤルは、海外の銀行からもオロンオボートを担保として融資を受けている懸念がある。これは二重担保となる。モンツァメ通信2009年11月30日電子版参照)。

この結果、破綻したゾース銀行は、モンゴル銀行と財務相によって国営化され、2009年11月27日、新しい経営陣の下で営業を開始した(ウヌードゥル新聞2009年11月28日付)。

それと同時に、新社長に米国人ベン・トレンボルが任命された。トレンボルは、前ХААН銀行職員であった(www.news.mn091128、[後注]モンツァメ通信2009年11月30日電子版に詳報がある)。

2009年11月24日、「モンゴル・ガザル」社社長Ц.ミャンガンバヤルが逮捕された。彼は、北京市に1週間滞在した後、チンギス・ハーン国際空港に戻ったところだった。

ミャンガンバヤル(ニックネームが「アルタン・マグナト」)は、ゾース銀行とアノド銀行に多額の債務がある。

アノド銀行は、モンゴル・ガザル社所有の建物を賃貸している。そして、モンゴル・ガザル社とその子会社は、アノド銀行から多額の融資を受けていた。

ゾース銀行からも600億トグルグの債務があって、期限内に返済していない(モンツァメ通信2009年11月25日電子版)。


(注:Ц.ミャンガンバヤル。下記のЖ.Батсvх, О.Чинзориг著315ページより)

「アルタン・マグナト(金鉱王)」(注:「マグナト」はロシア語で「富豪」「大資本家」の意)といわれるツェベーンジャビン・ミャンガンバヤルは、1966年、ツェベーンジャブの長男としてウランバートル市で生まれた。少年時代、両親の故郷ホブドで祖母に育てられた。1974年、鶏肉工場の26番学校入学。3年生の時、父親が傷害罪で服役したため、ミャンガンバヤルが世帯主の代わりになった。母は医師だが病気がちだった。彼は、勉学に励み、成績最優秀だった。物理学オリンピックで金メダル獲得したため、中学卒業後、東独の物理学の大学入学を勧められたが、それを断り、生活を支えるため、モンゴル国立大学に入学した。彼は、外国人留学生から衣服をもらって、それを売って生計の資にした。最優秀の成績で大学を卒業し、ソ連のドブサ市の物理学研究所の大学院生となった。彼は、多額の奨学金を得ることができたが、一方、自由時間に商売をした。130ルーブルの三面鏡を買い、モンゴルに運び1100トグルグで売った。そして、タルバガンの毛皮を買い入れ、ロシアで売った。だが、「ナイーブ」だったので、詐欺にあって、利益は出なかった。1992年、彼はビジネス界に転身し、モンゴルで「ガザル」社を設立した(1995年に「モンゴル・ガザル」と改称した)。ミャンガンバヤルは、地方から来た毛皮・羊毛を売る人々の信頼を勝ち得て、それを買い入れて売り、利益を上げた。また、ロシアの小麦粉・米を売った。1993年、銀行の融資で羊毛を買い付け、日本に売った。帰りに日本から車を買い入れ、モンゴルで売った。同時に、日本側の支援でシンガポールから電気製品を買い入れ、ロシアで売った。その結果、100万ドルの利益を得た。その金の一部で、「タイガー」「ハイネッケン」ビールの販売権を取り、販売した。だが、利益が少なく、ビール販売業から撤退した。また、アルタイ・ホテルの民営化に応札し、100万ドルで落札した(日本側と共同出資)。その後、利益が少ないので、日本側にその持ち株を30万ドルで売却した(注:このホテルは、現在、「フラワー・ホテル」と改称して、多くの日本人によって利用されている)。ミャンガンバヤルは、1994年、病気療養中に、米紙を読んでいて、今後は鉱物資源開発が重要だと認識し、鉱山業に進出することを決意した。そこで、フラワー・ホテルを担保にして融資を受け、ヘンティー・アイマグで金採掘をしたが、5キロの金を得ただけで、失敗した。その後、自ら研究を重ね、2000年夏、「モンゴル・ガザル」社は、2.5トンの金を採掘した。さらに、ウムヌゴビ・アイマグ、マンダルオボー・ソムのオロンオボートで、金探査を行い、大量の金鉱を発見した。そして、20トンの金を採掘できた。また、「MGコンストラクション」建設会社を設立したり、セレンゲ・アイマグ、ツァガーントルゴイ・ソムで農業会社を設立したりした。モンゴル・ガザル社の従業員数は、1500人、比較的高給である。彼が、民営化の競売に加わらないのは、「他人の食い扶持を奪わない」ためだという(注:Ж.Батсvх, О.Чинзориг, Монголын Авъяаслаг Бизнесмэнvvдийн, Нууц, Улаанбаатар, 2007)。

その意味では、貧困家庭から身を起こし、自力で富裕化した、Ц.ミャンガンバヤルは、政治に寄生して利得をはかるタイプのビジネスマンとは違うようだ。

さて、ゾース銀行国営化をどう見るか。

第一に、モンゴル・ビジネスマンの富裕化には、三つの道がある。一つ目は政治に寄生し富裕化をはかること。ジェンコのバトトルガ(注:そして大臣にまでなった)など、数多くのビジネスマン。二つ目は、政党を結成して自己の目的(=富裕化)を遂げること。ボヤンのジャルガルサイハン(共和党)、エレルのエルデネバト(祖国党)たち。かの国民党を作り自ら脱党したグンダライも。三つ目は、銀行から融資を引き出し事業を興すこと。アルタン・マグナトのミャンガンバヤル。

彼らは、それぞれの道を歩んで富裕化し、かつ社会に「怨嗟」(注:前者。2004年から始まった市民運動による攻撃対象となった。もっとも、この市民運動も政党化して国民の支持を失った)と「騒乱あるいは混乱」(注:後二者。ジャルガルサイハンは2008年7月1日の「騒乱」、ミャンガンバヤルはアノド銀行とゾース銀行の経営破綻で「混乱」)とをもたらした。

憲法裁判所長官Ж.ビャンバドルジがかつての同僚である国家大ホラル(国会)議員人民革命党会派代表Д.ルンデージャンツァンと顔を合わせ、現在の社会経済状況について意見を交換した際、ビャンバドルジは、現在のモンゴル社会で貧富の差が拡大し、貧民層の不満が爆発点に至れば革命が起きるだろう、と述べたという(ウヌードゥル新聞2009年11月28日付)。これは、政治指導部の杞憂ばかりではないであろう。

第二に、ゾース銀行は、IMFが押しつける「銀行の解体・整理」によって、合併策がはかられ、大型化するはずであったが、そうはならず、国営化された。これは、ここ20年間にわたって続いた社会主義国営企業の解体(=民営化)が限界に来ていることを示す。

もっとも、ゾース銀行は元来、国営企業ではなかった。だが、国営企業の民営化は、ほとんど経営破綻をもたらしている。これを切り抜ける形として、合併が策されるが、その際、今後の道筋として、国営化が一つの方策となる可能性がある。

第三に、モンゴルにおける貧富の差の拡大は、1989年末に開始し、1990年末に自ら役割を終えさせ、以後、利得獲得と無批判の資本主義化に動いていった、モンゴル民主化運動家たちが(注:モンゴル国大統領になるものまで現れた)、今後、貧困層による批判・攻撃の対象となる芽をはらんでいるようだ。(2009.11.29)

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