「開墾V」運動が2年目を迎える(2009年4月28日)

2008年から始まった「開墾V」運動が2年目を迎える(「開墾T」が1959年、「開墾U」が1976年)。

「開墾V」によって、耕作地が120万ヘクタールになり、小麦20万5800トン(国内自給率50%)、ジャガイモ14万2100トン(国内自給率100%)、野菜8万600トン(国内自給率49%)を収穫した。

「開墾V」運動1年目には、政府は、新技術と設備品の導入、肥料および除草剤の輸入関税と付加価値税の免除という政策を講じた。また、トラクター燃料購入資金のための融資を供与した。さらに、収穫物の50%を高額で買い付けた。

2年目の今春、28万ヘクタールの耕作地に、小麦(26万4800ヘクタール)、ジャガイモ(1万2000ヘクタール)、野菜(7500ヘクタール)、飼料(1万ヘクタール)を播種する計画で、そのために必要なトラクター燃料用重油4000トンを国庫から供給する。また、政府は、2008年と同様の措置を講じるのに加え、農業生産業者に対し、小麦市場価格を考慮して、助成金を支給する法案を国家大ホラル(国会)に提出する(以上、ウヌードゥル新聞2009年4月25日、29日、30日付)。


(注:収穫が終わった耕作地。黒い色に見えるのが耕作地。トゥブ・アイマグ北部、2008年秋。筆者写す)


(後注1:セレンゲ・アイマグ、ノムゴン・ソム。google earthより筆者加工。
   茶色に見えるのが前年の耕作地。隣接地が耕作される。耕作法は粗放的)


(後注2:「開墾V」運動3年目を迎えた小麦耕作地。セレンゲ・アイマグ、ノムゴン・ソム。
2010年6月7日。筆者写す)

この「開墾V」運動1年目の反省点について検討するため、2008年12月6日、С.バヤル首相、バダムジョナイ農牧業相たちが出席して、「開墾V」国民会議(注:この時点で第5回目になっていた)がウランバートル・ホテルで開催された。

出席者たちは、長所(国内需要の50%を満たす)と共に、短所(収穫時期が遅れた、収穫作業・技術が稚拙だった)も指摘した(ウヌードゥル新聞2008年12月7日付)。

ここで、モンゴル人民革命(1021年)以降の農業政策を振り返ってみたい。

1924年4月、「モンゴル農業法」が公布された。

次いで、モンゴル人民革命党中央委員会総会(1925年)は、農業を発展させることを特別に留意し、国内で消費する穀物を自給するのが望ましいこと、そのため国内で農業を発展させなければならないことを決議した。

さらに、1920年代末から1930年代初め、農業基金を増資し、貧しい人々の農民友愛会設立を援助し、ロシアから農業専門家を招いて就業させ、互助組合に農地を供与し、栽培品種を増やし、水車を作った。

モンゴルの農地総面積は、1925年に約7万デシャーチンだった。

牧民的経営による農地面積は、1938年に、1万6,000ヘクタール以上になっていた。そして、1万9,000人が農業に従事していた。彼らによってもたらされた収穫量は、9,200トンになった。

モンゴル人民革命党第13回大会(1958年)、および中央委員会総会(1959年)によって、1961年から穀物消費を自家生産で賄うべく、1959ー1961年、30万ヘクタールの未開墾地を開墾するために(注:いわゆる「開墾」T運動)、ソ連からトラクター5,400台、コンバイン2,500台、脱穀機約1,100台、犂4,000台以上、播種機3,000台、その他多数の手押し車を投入し、専門家345人を招聘して就業させた。

その結果、1959ー1960年の2年間で、28万6,000ヘクタールの未開墾地が開墾され、利用されるようになった。そして、技術者2,000人がソ連の専門家に指導され、養成された。

未開墾地の開墾と関連して、セレンゲ、フブスグル、ボルガン、ウブス、ドルノド、トゥブ諸アイマグで、新たに多くの国営農場が建設された。さらに、1958ー1960年に、ボルガン、ウランゴム、チョイバルサン、ウランバートル諸都市で、3万4,000トンの製粉工場が建設された。

モンゴルでは、1951年に、穀物1万4千トン、ジャガイモや野菜5,400トンを収穫したが、1960年には、穀物25万6,500トン、ジャガイモや野菜2万5,400トン、家畜の飼料3万4,400トンの収穫があった。これをみると非常に大きな増産であった

一人当り農業生産は、1985ー1989年に、穀物415ー486キログラム、ジャガイモ62ー77キログラム、野菜22ー30キログラムになった(注:「開墾」U運動の結果)。

モンゴルでは、国営農場は、1990年まで34あり、また野菜・果物農場は10近く、家畜用飼料農場20近くあった。

しかし、1990年代に入り、国営農場の民営化によって、それが分割され、小さな単位が多くできた。そのため、工業科学技術水準が低下し、労働・生産組織や秩序が破壊され、1991年には一人当りの穀物生産高は279キログラム、ジャガイモ45キログラム、野菜10.6キログラムにまで著しく下落した。

その結果、1990年以降は、小麦粉、ジャガイモ、野菜の国内消費を賄うことができなくなり、外国から小麦や小麦粉の緊急援助を受けるようになった。

(以上、Т.ナムジム著[村井宗行訳]『モンゴルの過去と現在』、第8章 経済発展と国民経済(1990年まで)、4.農業の発展、1998年、日本・モンゴル民族博物館刊、より)

上述のことからわかるとおり、モンゴルの農業は、1990年代以降、IMF指針に従った国営農場の民営化によって、壊滅的な打撃を受け、その結果、モンゴルは、食糧の自給ができなくなり、食糧輸入国に転落した。

この事態を改善すべく、С.バヤル政権は、「開墾V」運動を展開し、食糧自給政策(=食の国家安全保障)を推進したのである。

これは、モンゴルの歴史的伝統を継承するものであった。

しかも、モンゴル人自身による生産活動の一環である、という意味でも、「開墾V」運動は大きな意義のあるものである。(2009.05.03)

(追補)収穫期を迎えた2009年9月18〜20日、10年に一度の大寒波がモンゴル全土を襲った。

この寒波による降雪によって、8万ヘクタールの耕作地の小麦が倒れた(ウヌードゥル新聞2009年9月22日付)。

トゥブ・アイマグ、ジャルガラント・ソムでは、穀物収穫量の30%を失った(ウヌードゥル新聞2009年9月24日付)。

このための対策として、寒波によって倒れた小麦畑の小麦を起こすためのロシア製農機具7500台を投入して、被害を最小限に食い止めるという(ウヌードゥル新聞2009年9月23日付)。

だが、この大寒波のモンゴル農業への影響は、当初の予想より小さい。この結果、1990年以前の経験を生かし、また、天候回復を待って、収穫作業が再開できる模様である(ウヌードゥル新聞2009年9月21日付)。

そういうわけで、モンゴル農業関係者は、ひとまず胸をなで下ろした、というところであろう。(2009.09.28)

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