「モンゴル民主同盟」小会議(2008年02月18日)

「モンゴル民主同盟」は、2008年2月18日、「モンゴル史における民主革命遂行の責務」というテーマで小会議を開催した(ウドゥリーン・ソニン新聞2008年2月19日付)。

この2月18日というのは、18年前、モンゴル民主同盟が「モンゴル民主同盟第1回大会」を開催した日である。

この大会において、モンゴルに民主革命が勝利したことが宣言されたのであった。

18年後の小会議には、モンゴル民主化運動に参加した多くの人々が参集した(注:Э.バトウール、Р.ゴンチグドルジ、Р.アマルジャルガルら。Г.ボシグトも参加している)。

この席上、Б.バーバル(注:著述家。民主同盟連合政権[1996-2000]では、畑違いの財務相を務め、かの「復興銀行合併問題」疑惑に関係した。傲慢奇矯な言説で知られ、しばしば筆禍事件を起こしてきた)は、「平和な革命」についての報告を行った。

バーバルによれば、「(モンゴル民主化運動によって)モンゴルが独立を獲得するのに成功した」。この「革命」は、「民主主義」、「倫理」を呼びかけた20世紀の「第三の革命」であった。

(注:この「第三の革命」というのは、満州中国(=清朝)に対する1911年の「革命」、1921年の「人民革命」、そしてソ連に対する1990年の「民主革命」という意味のようである。)

この報告に対し、批判が集中した。

Дарь.スフバートルは、「経済独立」も重要である、と批評した。

Ж.ザナー(国民協会代表)は、国家大ホラル(国会)が民主主義から後退した。

Р.ボルマー(有権者啓蒙センター代表)は、不正選挙によって勝利した人民革命党を解体させるべきである。

Э.バトウールは、2008年国家大ホラル(国会)議員選挙で民主党が敗北すれば民主主義が死ぬ。(民主党は)人民革命党に勝たなければならない、と述べた(注:相変わらず、私怨じみたことを述べている)。

(以上、ウヌードゥル新聞2008年2月19日付参照)。

さて、18年前の1990年2月18日に開催された、「モンゴル民主同盟第1回大会」は、9項目の「決議」と「決議補足文」を採択して閉会した。

それは、1)党大会決議の全面的賛成、2)モンゴル民主同盟綱領の承認、3)新憲法と政党法採択の要求、4)信教の自由とモンゴルの政治的独立(1911年の革命)を全国民に周知させること、5)モンゴル国民に当決議を知らせること、6)モンゴル人民共和国人民大ホラルと人民革命党中央委員会にこの決議を通達すること、7)Ю.ツェデンバル弾劾および人民特別大会開催の要求、8)モンゴル民主同盟指導部の選出、9)同指導部に対する継続的行動の委任、であった(注:Ж.Заанхvv, 1990 Оны Ардчилсан Хθдθлгθθний Тvvхэнд Холбогдох Баримт бичгvvд, Тэргvvн дэвтэр, Улаанбаатар, 2004、92−93ページ。なお、8項目目の「決議補足文」は、本書には採録されておらず、Монголын Ардчилсан Холбоо, Тvvхэн Товчоон, Улаанбаатар, 2003、15−16ページにある。)

筆者も、拙稿「民主化運動はいつ始まりいつ終わったか」で、清朝に反対する「モンゴル牧民運動」の「革命的伝統」をモンゴル民主化運動が継承している、と述べた。

その際の目標は、「独立」であったことは明らかであろう。この「独立」は、政治的経済的独立であった。この「独立」を達成するために、民主主義、人権、思想信条の自由などが不可欠であったのである。

ただ、内部的弱点(政権への参加と利得欲)と外部機関の干渉(「支援」国と国際金融機関などによる「支援」)のため、モンゴル民主化運動は、1990年9月に分裂していったのである。

そのゆがみが現在のモンゴルのゆがみとなって継続している。(2008.02.24)

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