
エンフバヤル政権の性格(2000〜2004年)
村井宗行
エンフバヤル大統領は、2005年12月15日、記者会見を行った。
その中で、彼は、2004年の経済成長率が10,6%だったことがエンフバヤル政権(2000−2004年)の最大の功績である、と述べた。また、エンフバヤル政権の最初の3年間に、ゾド被害が大きく、家畜1200万頭が斃死し、35万人が貧困化した。このため貧困問題に取り組むことが困難となった、とも述べた(注1)。
すなわち、彼は、エンフバヤル政権が高度経済成長を達成したが、貧困問題は解決できなかった、と述べているのである。
エンフバヤルは、ここで「経済成長」と「貧困」を問題にしている。何故か。この背景にあるのは、IMF(国際通貨基金)のPRGF(貧困緩和成長戦略)である。
1.IMFとモンゴル
モンゴルは、1991年2月14日にIMFとWB(世界銀行)に加盟した。そして、1991〜92年の緊急融資(a Stand-by credit)、1993〜96年のESAF(高度構造調整戦略)プランを経て、1999年9月からPRGF(貧困緩和成長戦略)プランに基づく経済政策を実施してきた(注2)。
ここでいうESAFプランというのは、新しいものでは、1997年から2000年までの3ヶ年融資プランをさす。1997年に1500万ドル、3年間で総額4500万ドル(半年ごとに供与)の融資が供与される。
ただ、無条件に融資するわけではもちろんない。
その条件として、
1)賃金・価格の自由化、
2)輸入規制の緩和、
3)国営企業の民営化、
4)商業銀行制度の設立、
5)資本規制の緩和、
6)変動相場制の導入、などを前提とする。
その背景には、IMFの主張によると、
1)銀行制度の欠陥、
2)国営企業の肥大、
3)非能率性、
4)税制のゆがみ、
5)民営化のための法律インフラの不備、
6)歳入欠陥がGDP(1996年)の9.5%、などがあるという。
特に、モンゴルの国家予算赤字は、致命的である。
そのため、中間目標(1997〜98年)として、
・市場経済への移行
・私企業の発展
・インフレを一ケタに
・実質年成長率を6%に
・外貨準備高を15週間に
・貯蓄高を上げる
・国家予算赤字を10.5%(1997年)から6%(2000年)に下げる。
・国営部門を減少させる、などの諸政策を義務づけている。
そして、たとえば、1997〜98年のマクロ経済政策として、
・GDP年成長率を3%(1997年)から5%(1998年)に
・インフレを3〜4%に
・外貨準備高を15週に(1998年末)
・実質利率(公定歩合)を堅持
・商業銀行への融資制限
・企業への補助金削減
・賃金規制
・輸入関税の撤廃
・銀行再編
・銀行再編と税制改革によって国家予算赤字を減少させる、などの実施をせまる。特に、「輸入関税の撤廃」は、国内産業の荒廃を招く。実際その通りになった。
また、「構造改革」として、
・国営企業を減少させ私企業を増加させる
・輸入関税の撤廃
・税制改革
・銀行制度の再編
・(外国資本)投資環境の整備、
「社会保障部門」では、
・国家歳出予算削減による教育・保健改革
・年金制度の自立化、などを迫っているのである(注3)。
この間の事情については、例えば、モンゴル銀行総裁Я.オチルスフは、IMF総会(1999年9月28〜30日)における演説でそれを明らかにしている。
オチルスフによると、モンゴルは、過去数年間ESAFプランによる財政金融政策を実施してきたが、1999〜2000年には、
1)マクロ経済の安定化、
2)経済社会部門の構造改革、
3)私有セクター主導の経済改革、
4)輸出振興、
5)国内蓄積、といった政策によって、モンゴルの潜在的可能性がさらに発揮されるだろう、と述べて、IMFおよび世銀によるモンゴルへの融資援助に感謝している(注4)。
次に、PRGF(貧困緩和成長戦略)というのはどういうものか。
過去のESAF(高度構造調整戦略)プランでは、賃金・価格の自由化、輸入規制の緩和、国営企業の民営化、商業銀行制度の設立、資本規制の緩和、変動相場制の導入という前提目標の下で、インフレ率が300%から50%に低下させ(1995〜96年)、経済成長率が3〜5%になった(注5)。
しかし、貧富の差の拡大と貧困化・失業は進行している。
そこで、今後、
1)急速な経済成長と貧困緩和、
2)貧困層に対する政策、
3)保健、教育、地方インフラ中心、
4)私有セクター主導の経済成長、というPRGF(貧困緩和成長戦略)プランに移行し、(一人当たりGDP895ドル以下のIMF加盟国に対し、IMFと世銀が支援(アドバイスと実行)する。
その手法は、
1)マクロ経済:経済成長とインフレ率、
2)国家予算バランス、
3)良き統治、
4)マクロ経済安定、
5)維持可能な成長、
6)貧困緩和、などである(注6)。
こうして、モンゴルは、IMFプランを「忠実に」実施してきた。
2.民主同盟連合政権批判
人民革命党は、1996年の国家大ホラル(国会)議員選挙で敗北し、初めて野党のなった。
この選挙敗北への対処を迫られた人民革命党は、1997年2月23日、人民革命党第22回大会を開催し、新しい党綱領を採択した。
その党綱領によれば、人民革命党は、民主主義的社会主義の党であると規定し、独立、主権、民族統一、社会進歩をめざし、人権、自由、平等、正義、連帯、社会保障を尊重する、とある。
後に、ウネン新聞(2007年10月22日付)が述べるところによれば、これらの実現のために、「憲法」を遵守し、「前の時代の歴史的経験、社会改革に依拠する」。
すなわち、
1、社会政策:貧困、失業の撲滅、社会保障制度をモンゴルの特殊性に基づき強化する
2、経済政策:国内産業の競争力を高める、地方開発
3、科学・教育・文化政策:民族文化
4、自然環境政策:自然環境保護
5、政治政策:憲法、民主主義思想の遵守、NGO支持、
6、社会主義インターナショナルに参加
7、選挙で多数派となる、という政策を実施する。
このため、1998年、人民革命党第5回小会議が開催され(注7)、1999年3月25〜26日には、初級単位書記長会議(注8)が開催された。
また、国際関係では、左翼あるいは左翼中道路線の政党との友好関係を推進し、ロシア、中国の与党および左翼政党との友好関係を推進した(注9)。
また、1999年に、社会主義インター第21回大会の正式メンバーとなった(注10)。
2000年5月16〜17日、人民革命党第8回小会議が開催されて、人民革命党綱領を改定した。(注11)。
こうして、2000年選挙では、「政治混乱を正し、貧困から脱却する」(注12)、という選挙宣伝を行った。
ただ、この人民革命党2000年選挙綱領の一部には、「私有制度に依拠して経済発展を図る」(注13)、という箇所もある。
このことについては、「民主主義的社会主義(いわゆる民主社会主義)」の理論的指導者であるА.ツァンジド(国家大ホラル議員)が書いているが、(民主社会主義の)政策は、1)社会保障制度を作ること、就業機会を創設すること、教育・保健部門を国民が平等に供与されること、2)市場関係、私有を重視すること、3)民族文化、慣習を重視することである、とあるように、IMF路線を否定しているわけではなかった(注14)。
エンフバヤルは、新党首に選出され、新しい活動を開始した。
彼は、民主同盟連合政権がその政権担当期間の最後の年、2000年の4月5日、2000年春期国家大ホラル(国会)において、野党である人民革命党の議会内会派代表として冒頭演説を行い、民主同盟連合政権を批判した。
彼は、民主同盟連合政権が、
財政・金融部門の混乱
融資返済不能状態の現出
ゼロ関税政策導入による経済混乱
課税負担増による脱税行為
地下経済の繁栄(30%)
財政赤字の拡大
対外債務7億ドルに
民営化の失敗
輸出の減少、輸入の増大
カシミア原毛輸出許可による国内産業衰退
民生の悪化、失業の増大
貧困層が三人に一人になった
牧民の60%以上が所有家畜100頭以下に
高い失業率
犯罪の凶悪化、を引き起こした。
民主同盟連合政権の失政として、
日用品価格の自由化による生活状態悪化
地方選挙の結果無視
野党をスパイする
遠隔アイマグの切り捨てによる生活状態悪化
自然災害からの牧民保護制度の放棄
公務員を党所属によって差別
近視眼的なゼロ関税制度導入による国内産業衰退
不法な民営化
銀行民営化の歪曲
汚職の横行
政治不信を招く
国家予算によるビジネス、国家資産横領、の諸事実をあげている(注15)。
これは、事態を正確に捉えたものであった。
3.2000年国家大ホラル(国会)議員選挙の意味
2000年7月2日、国家大ホラル(国会)議員選挙が実施された(投票率は81.37%)。その結果は、人民革命党の大勝であった(注16)。
すなわち、人民革命党は、議席数の94.7%、72議席を獲得(全議席は76議席)した(注17)。
人民革命党大勝の原因は、民主同盟連合政権の失政と腐敗にあった。
つまり、日用品価格自由化、ゼロ関税制度、銀行合併問題、首相交代問題、ゾリク殺害、民営化問題、インフレ、失業、地方のインフラ破壊、犯罪率増加などが当該政権敗北に導いた要因であった。
すなわち、エンフバヤルの推進した政策がモンゴル国民によって支持されたのであった。
一方、海外での反響は、
・旧「共産党」の勝利、
・党首エンフバヤルに注目、
・「草原のブレア」、左翼中道、第三の道、
・IMFと再交渉できるか、というものであった(注18)
4.エンフバヤル政権発足
エンフバヤルは、2000年国家大ホラル(国会)議員選挙圧勝後の記者会見で、市場経済を堅持することを表明した(注19)。
また、彼は、選挙後の記者会見で、「われわれはコミュニストという化け物ではない」、と述べて、諸外国を安心させようとした。
実際、人民革命党は、(民主同盟連合政権の時期には)大規模民営化、土地所有、エネルギー・銀行制度改革などに反対していたが、民主同盟連合政権の政策を継承せざるを得ないだろう、という見方が一部でなされていた(注20)
そのことの前兆は、人民革命党小会議(執行委員会)でのエンフバヤル報告(2000年7月17日)でみることができる。
彼は、次のように述べている。すなわち、
・人民革命党選挙綱領の実施
銀行金融政策の健全化
関税、税制度の適正化
国内産業育成
中小企業支援
就業機会の創出
農牧業の電力化
予算の公開性
学費・医療費の軽減
・市場経済制度の維持
観光業育成(注21)
これが、政府綱領に盛り込まれ、
「政府政策綱領(2000〜2004年)」として、
・経済成長
・輸出振興
・教育文化発展
・社会保障の充実
・地域発展、地方と都市間格差の是正
・モンゴルの特殊性考慮
1.社会政策
「社会政策の基本的方向は、人間の発展を促進し、民生の向上、社会サービスの提供、失業・貧困の撲滅にある。」
2.経済政策
「マクロ経済を強固にし、輸出振興、私有制度を中心として、経済安定をめざす。鉱山業、牧畜業、輸出振興、観光業を発展させる。2004年までに経済成長率を6%にする。」
3.地方政策
地域発展構想に基づく、資本投下、定住政策
4.自然環境政策
エコロジー保護
5.国防政策
6.行政混乱除去、風紀取締(注22)
それでも、「モンゴルの特殊性考慮」や、「教育文化発展」というように、IMF路線とは異なった、「第三の道」をも模索していたことも事実であった。
5.エンフバヤル政権中間期の成果ー政策の急展開
エンフバヤル首相は、2001年11月11日、国連総会での演説の後、米国大統領ブッシュと会談した。
その席上、エンフバヤルは、イスラム原理主義に基づくテロリズムに反対すると共に、米国からの投資増を要請した(注23)。
これを受け、エンフバヤル首相は、2002年12月23日、臨時閣僚会議を招集し、2003年を「モンゴル観光の年」、「協同組合の発展を支持する年」と位置づけ、外務大臣エルデネチョローン、商工大臣ガンゾリグに対し、その目標を達成するための会議をおのおの主宰させることにした(注24)。
これら3つの記事は、国営通信社モンツァメが、今年の10大ニュース、などという年末恒例の企画に混じって、さりげなく発表されている。だが、モンゴルの今後を左右する、かなり意味を持つ方針であった。
エンフバヤルは、文化相を経験し、さらにそれ以前には、通訳の仕事に従事してきた。国際交流の経済的文化的側面を知悉していると思われる。彼の主導で、2003年に大幅な観光客数の増加が企画された。
それは、直接的には、国家予算に観光収入が納入されるという、マクロ経済安定化のためである。間接的にいうと、2004年には国家大ホラル(国会)選挙が行われる。当時の世論調査によれば、「年金・給料倍増」という、2000年国会議員選挙時の人民革命党の公約が達成されていないため、支持率が30%〜40%と低下傾向にある。その公約実現のための資金が見あたらないからだ。観光収入がその実現に寄与するであろう。
「土地関係、測量、地図作製局」の新設は、「土地所有法」採決に伴う処置である。当該法の問題点は、土地測量など何ら具体的裏付けがないまま、土地の無料分与が行われる、ということであった。そうした欠陥(ザル法というべき)に対し、エンフバヤル政権は本気で土地私有化に取り組むことを内外に示した。諸外国向け通信社モンツァメが配信したのもその理由があるわけである。しかも、この部局の責任者に、かなりの大物を充てている。
しかし、こうした方針に並行して、モンツァメが配信するところによれば、今年のゾド(冷害)によって家畜が200万頭斃死し、103人が死亡している(注25)。年金生活者数の増大(5人に1人)によって、年金基金の運営に困難を来たし、ひいては社会保障費支出が増加し、来年度当該部門の15%削減、という目標(IMFプランに基づく)実現が困難になっている(注26)。ウムヌ・ゴビでは、医師、教師、専門技師が不足している(注27)。青少年犯罪が深刻化し、青少年7千人が犯行を犯している(注28)。MCS社の「コーラ」飲料工業労働者が労賃不払いの解消を求めてストライキを敢行した(注29)。モンゴル人の間で、有利な土地を求め、土地争いが激化している(注30)。第三病院が民営化される(注31)。
2003年5月13日、エンフバヤル首相は記者会見を行って、政権の総括を行った。その席上、彼は、「遠大かつ壮大な政策を推進している」、として、「加工業8.8%増、資本投下20%増、GDP成長率9.4%」、「50万世帯に土地を無料で供給」、「世紀の道(=千年道路)」、「貿易特区」などの成果を強調した(モンツァメ通信2003年05月13日、および、ウヌードゥル新聞2003年05月13日付、Mongol Messenger 2003.05.14)。
また、正式にというか、人民革命党機関誌「ウネン」は、2003年05月20日および21日付で、「モンゴル政府の1000日、就労機会、進歩、発展の三年間、モンゴル政府が過去三年間にどのようなことをしたかについての各省の報告」を掲載して、その「成果」を公表した。
「財務経済省報告」では、マクロ経済において、GDP成長率が2000年の1.1%から2002年に3.9%になった、特に加工業の成長(2001年22.7%、2002年24.3%)、産業発展があった。それは、2001年を国内産業育成の年、2002年を資本投下の年、とした政策の結果である。
IMFと「協調」し、支出の削減、収入の増加をはかった。
財政赤字を縮小した(二分の一に)。会計制度の整備。特産品加工業3%免税。金鉱業に免税措置を講ずることによって成長を促した。
低所得者層の所得税を33.3%減税し、高額納税者の所得税減税予定している。
対外負債をなくすことができた。
モンゴル銀行に対する債務を二年間でなくした。
国債を発行した。
銀行の構造改革を行った。
インフレ率が1.6%に低下し、通貨準備高が49%増加した。
商業発展銀行・農牧業銀行・バガノール発電所を民営化した。
モンゴル支援国・機関による融資が6億6300万ドルである。
アルタンボラク自由貿易特区を建設することになった。
地方産業育成のために50〜100%減税した。
「産業貿易省報告」では、2001年を国内産業育成の年、2002年を資本投下の年としたことの「成果」として、工業生産高が2001年11.8%、2002年3.8%増加し、特に、加工業が2001年22.7%、2002年24.3%に成長した。
「食料農牧業省報告」では、牧畜業のための基金を設立した。
「緑の革命」により食料生産が2.1%から3.3%増加した。
食肉輸出を再開した(ロシア、日本、ヨルダン、カザフスタンに)。
「自然環境省報告」では、土地法(改正)・土地所有法を施行した。
環境保護のための法整備を行い、ゴミ問題に取り組んだ。
「法務内務省報告」では、法整備を進めた。
「インフラ省報告」では、日本政府融資によるウランバートル第四発電所の修理、各国政府融資によるエネルギー施設の修理、日本政府無償援助による石炭採掘、中国援助によるドゥルグニ水力発電所、クウェート基金によるタイシル水力発電所、世銀融資による電力網整備を行った。
電力部門を民営化した。
自動車道の整備・更新、橋の架設を行った。
アジア開銀特恵融資によるナライフ〜マーニト〜チョイル間道路の敷設、世銀特恵融資によるエルデネト〜アルバイヘール道路の補修、日本政府無償援助によるウランバートル市内道路の補修を行った。
観光客が増加し、観光業が成長した。
ウランバートル鉄道債務を完済した。
電話網を整備した。携帯電話が増加した。外資による電話の自動化を行った。
スペイン政府特恵融資による清掃施設の改修を行った。
「社会保障労働省報告」では、年金の完全支給、給料の増額を実施した。
最低賃金額を3万ドルに増額した。
失業率が2002年3.3%に低下した。
「教育文化科学省報告」では、「教育一括法案」を上程し、承認された。
「保健省報告」では、法整備を行った。
「国防省報告」では、平和維持軍へ参加した。モンゴル軍・米軍合同演習「バランス・マジック」を実施した。
農牧業部門で、かつて1980年代まで行われていた手法が復活していることは、社会主義的手法への回帰の意味もあろうし、牧民の自己責任だけで、ガン(干害)・ゾド(雪害)を克服するのは困難である、ということが再認識されたことを示している。
社会保障部門での社会保障・年金拡大(不十分であるが)は、評価されるが、1980年代のレベルには達していない。
エンフバヤル政権が明言するとおり、この成果は、IMFとの「協調」あるいは、従属によるものである。
内実は、そのほとんどが、融資・援助による資金に依拠している。この返済が30年後に大きな負担となるだろう。この外部資金による、インフラ整備、というのは、かつての帝国主義諸国の常套手段であった(イギリスのアフリカ植民地、日本の「満州国」など)。
それは、貧富の差の拡大、低開発の進行、という、かつて、アフリカがたどった道である。モンゴル指導層は、かつて、В.バーバルが誇らしげに言い放ったような、グローバリズムを不可避な所与のもの、とみなさず、その危険性を認識しなければならない。
モンゴルでは、「地下経済」が国民経済の30%を占めている(いわゆるインフォーマル・セクターを含む)、と言われるが、その状況への言及がない。モンゴル国立銀行は、その事実を捕捉しているはずであるが、それを公式には認めていない。マクロ経済は、それを含めたものでなければならない。インフォーマル・セクターこそ、当該国の自生的発展にとって不可欠の部門であるのだから。
6.結び
2004年06月26日、国家大ホラル(国会)議員選挙が行われた。
この選挙は、「人民革命党」、「『祖国・民主』同盟」、「共和党などの第三勢力」の三つどもえの選挙戦と見なされていた、社会学者Х.グンドサンボーの述べるように、(惜しいことに)第三勢力の占める余地はなかった(注32)。
人民革命党は、「あなた方のために、あなた方とともに」というキャッチフレーズと、党首・首相エンフバヤルを全面に出して、同党の政策を国民に訴えた。
「祖国・民主」同盟は、内部に不和・対立はあるものの、「現在の苦しみからの解放、家族への援助」という主張を全面に出して、選挙戦を戦った。
この際、「祖国・民主」同盟による、「18歳以下の青少年家族に毎月1万トグルグ支給」という主張は、相当インパクトがあった。
人民革命党もこれに対抗して、「新婚家庭に50万トグルグ、新生児に10万トグルグ、それぞれ一度限り支給する」、と主張する始末であった(注33)。
こうした事態の背景には、モンゴル国民の中で、貧富の差が拡大し、30%以上が貧困である、という事実があった。彼ら貧困層は、エンフバヤル政権の「成果」よりも、日常の生活を重視していた。
選挙結果が出た。
人民革命党が38議席、「祖国・民主」同盟が37議席をそれぞれ獲得した。
これは、人民革命党の実質的な敗北であった。すなわち、72議席から議席数をほぼ半減したのであった。
この意味は、エンフバヤル政権が推進してきたIMF路線追随政策が国民の支持を得られなかった、ということである。
モンゴルが「IMF路線の束縛」から脱却し、独立した政治・経済を確立しない限り、その将来は危うい(注34)。
(注1)ウヌードゥル新聞2004年12月16日付
(注2)1997〜1998年はモンゴルの政治混乱=腐敗の理由でIMFはモンゴルへの「援助」を停止した
(注3)以上、IMF Approves Three-Year ESAF Loan for Mongolia, Press Release Number 97/36, FOR IMMEDIATE RELEASE, July 31, 1997
(注4)INTERNATIONAL MONETARY FUND Press Release No. 11, September 28-30, 1999, Statement by the Hon. YANSANJAV OCHIRSUKH, Governor of the Bank for MONGOLIA, at the Joint Annual Discussion
(注5)IMF Press Release Number 97/36, 'IMF Approves Three-Year ESAF Loan for Mongolia', July 31, 1997, IMF
(注6)The IMF's Poverty Reduction and Growth Facility (PRGF), March 30, 2000
(注7)Айсуй зууны аргамаг хvлэг МАХН, УИХ дахь МАХНын бvлэг 1996−2000 он, Улаанбаатар хот, 2000 он〔モンゴル人民革命党の行動と2000年選挙綱領〕6頁
(注8)Айсуй зууны аргамаг хvлэг МАХН, УИХ дахь МАХНын бvлэг 1996−2000 он, Улаанбаатар хот, 2000 он〔モンゴル人民革命党の行動と2000年選挙綱領〕6頁
(注9)Айсуй зууны аргамаг хvлэг МАХН, УИХ дахь МАХНын бvлэг 1996−2000 он, Улаанбаатар хот, 2000 он〔モンゴル人民革命党の行動と2000年選挙綱領〕6−7頁
(注10)Айсуй зууны аргамаг хvлэг МАХН, УИХ дахь МАХНын бvлэг 1996−2000 он, Улаанбаатар хот, 2000 он〔モンゴル人民革命党の行動と2000年選挙綱領〕7頁
(注11)Айсуй зууны аргамаг хvлэг МАХН, УИХ дахь МАХНын бvлэг 1996−2000 он, Улаанбаатар хот, 2000 он〔モンゴル人民革命党の行動と2000年選挙綱領〕8頁
(注12)Айсуй зууны аргамаг хvлэг МАХН, УИХ дахь МАХНын бvлэг 1996−2000 он, Улаанбаатар хот, 2000 он〔モンゴル人民革命党の行動と2000年選挙綱領〕8頁
(注13)Айсуй зууны аргамаг хvлэг МАХН
УИХ дахь МАХНын бvлэг 1996−2000 он, Улаанбаатар хот, 2000 он〔モンゴル人民革命党の行動と2000年選挙綱領〕 26頁
(注14)А.Цанжид, Ардчилсан Социализм Yvсэл, Хθгжил, Мθн Чанар, Улаанбаатар, 2000 82頁
(注15)ウドゥリーン・ソニン新聞2000年4月6日付
(注16)ウドゥリーン・ソニン新聞2000年7月15日付、およびСонгуулийн Ерθнхий Хороо, Ардчилсан Тθрийн Сунгуулийн Товчоон, Улаанбаатар, 2002
(注17)もっとも、得票率は41%だった。これは、選挙法が単純小選挙区制であったからである
(注18)例えば、Monday, 3 July, 2000, 18:12 GMT 19:12 UK, http://news.bbc.co.uk/hi/english/world/asia-pacific/newsid_817000/817356.stm,
Monday July 3 9:08 AM ET, Mongolia's Ex-Communists Win Election Landslide, By Jeremy Page, ULAN BATOR, Mongolia (Reuters)
http://dailynews.yahoo.com/h/nm/20000703/wl/mongolia_elections_dc_2.html
Disillusioned Mongolians turn to 'Blair of the Steppes', By Damien McElroy, http://www.telegraph.co.uk/et?ac=000579381554028&rtmo=qXMdqxJ9&atmo=99999999&pg=/et/00/7/2/wmong02.html
Rebadged communists sweep back to renew 75-year grip on power, Date: 04/07/2000
By JOHN SCHAUBLE, Herald Correspondent in Beijing, http://www.smh.com.au/news/0007/04/text/world12.html
Mongolia's communist party returns to power, under shadow of politician's unexplained death http://www.cnn.com/WORLD/world.report/.
Mongolia swears in parliament full of ex-Communists
By Irja Halasz - 19 Jul 2000 09:32GMT, http://news.ft.com
Thursday June 29 9:18 PM ET, Mongolia Ex-Communists Seek Comeback
By JOSEPH COLEMAN, Associated Press Writer, http://dailynews.yahoo.com/h/ap/20000629/wl/mongolia_election_2.html.
Saturday July 1 5:10 AM ET, Mongolia's New-Look Communists Set for Election Win
By Jeremy Page, http://dailynews.yahoo.com/h/nm/20000701/wl/mongolia_election_dc_1.html.
Mongolia's opposition claims landslide victory in poll, http://www.cnn.com/cwc/ASIANOW/story5.html.
Mongolia's ex-communists in landslide win, http://news.bbc.co.uk/hi/english/world/asia-pacific/newsid_816000/816459.stm.
(注19)ウドゥリーン・ソニン新聞2000年7月4日付
(注20)ウドゥリーン・ソニン新聞2000年7月7日付
(注21)ウドゥリーン・ソニン新聞2000年7月18日付
(注22)ウドゥリーン・ソニン新聞2000年9月8日付
(注23)MEETING OF G. BUSH AND ENKHBAYAR IN DETAIL, OANA-MONTSAME 2001.11.15 Ulaanbaatar, November 15. OANA-MONTSAME. また、Bush and Enkhbayar Meet in New-York, The Mongol Messenger, November 15, 2001
(注24)MONTSAME 2002.12.23
(注25)MONTSAME 2002.12.24
(注26)MONTSAME 2002.12.24
(注27)MONTSAME 2002.12.24
(注28)MONTSAME 2002.12.24
(注29)MONTSAME 2002.12.24
(注30)ウヌードゥル新聞2002年12月24日付
(注31)montsame2002.12.25
(注32)ウヌードゥル新聞2004年05月26日付
(注33)ゾーニー・メデー新聞2004年05月25日付、およびウランバートル・ポスト紙電子版2004.05.28
(注34)http://www.aa.e-mansion.com/~mmurai/の「モンゴル時評」参照
(C)著作権所有 村井宗行
