人民革命党第25回党大会はС.バヤルを党首に選出(2007年10月26日)

モンゴル人民革命党は、2007年秋期国家大ホラル(国会)中にもかかわらず、第25回党大会を開催した。

モンゴルに現在、16以上の政党が最高裁判所に登録されている。最近では、「健全な社会のための市民運動」が市民運動党を結成し、2007年10月17日、最高裁判所によって認可された。

人民革命党は、1925年に結成された。モンゴルでは最も古い政党である。1990年に党綱領の一部を改訂し、一党独裁を放棄して、多党制の中で党活動を行い、国政選挙勝利を目指すことにした(注:同党綱領より。ウネン新聞2007年10月22付)。

だが、私人たちの活動する政治団体の一つであることには変わりがない。筆者がこの政党の党大会を「論評」するのは、同党がモンゴル現代史上で、良きにつけ悪しきにつけ、大きな位置を占めており、モンゴル史の行方を左右する政治勢力だからである。

人民革命党は、党大会を大統領選挙にあわせて、4年に1回、開催していた。モンゴル憲法(1992年)では、政党のみが大統領候補を推薦する権利を持っているからである。

だが、今度の第25回党大会は、2005年の第24回党大会からわずか2年後に開かれた。

これは、モンゴル現代史において、「貧富の差の拡大」や「汚職問題」など、様々な矛盾が噴出し、同党もそれに対応して、党改革を行う必要が出てきたからであった。また、同党の支持率が低下している(注:民主党と同じかそれよりも若干低いとみられている)状況を変える必要があった。

こうして、人民革命党内分派である「特別大会のために」運動(代表Т.ガントルガ)などの要求によって、党大会を2年繰り上げて開催されたのである。

さて、人民革命党は、2007年10月21日、小会議を開催し、第25回党大会準備を開始した。この小会議の席上、2008年国家大ホラル(国会)議員選挙の選挙公約が提案された。

それには、年金15万トグルグ、公務員平均給与50万トグルグにすること、ウランバートル市内に電車、橋、道路を敷設することなどが含まれているいた。そして、党内改革案として、選挙敗北の際には、党指導部が責任を明確にすることが盛り込まれていた(ウヌードゥル新聞2007年10月22日付)。

こうして、人民革命党第25回党大会は、2007年10月22日、代議員678人で開催された。その議題は、「人間の発展」、「党改革」、「政治刷新」であった(ウヌードゥル新聞2007年10月22日付)。

この中で、様々な議論がその分科会で討議された(注:その詳細は、ウネン新聞2007年10月22、23、24、25、26、27日付参照)。

閉会予定の25日がさらに延長され、2007年11月26日、同党党首選挙が行われた。

その結果、С.バヤル(注:1956年生まれ。50歳。同党書記長)が人民革命党党首に選出された。

С.バヤルは、党首受諾演説の中で、自分から望んで就任するわけではないが、党革新と2008年選挙勝利のために努力する。党首と首相を分離することはできない。これは原則の問題である、と強調した。また、選挙結果によっては責任をとる、と述べた(ウヌードゥル新聞2007年10月27日付)。

人民革命党は、М.エンフボルド党首派とエンフバヤル大統領派に分かれ、権力闘争を繰り広げてきた。その中で、市民運動の活発化、銀行をめぐる不祥事、閣僚罷免などをめぐる不毛な国家大ホラル(国会)での議論などが、М.エンフボルド政権誕生後(2006年〜)に噴出し、同党の改革の必要性が叫ばれた。

党大会開催中、2つの出来事が起こった。

一つは、エンフバヤル大統領が、2007年10月23日、訪米し、ブッシュ米大統領と会談したことである。

ブッシュは、その会談の中で、「千年試練基金は、・・・市場・・経済を定着させる・・・計画である」、と述べ、モンゴルをIMF路線の下で、いっそう資本主義寄り(それも米国寄り)にする企てを明らかにした。

この「千年試練基金」というのは、2億8500万ドルの無償援助をさす(ウヌードゥル新聞2007年10月24日付)。今後、「モンゴル千年試練基金」が設立され、千年試練基金の最初の資金が9ヵ月後に投与される(ウヌードゥル新聞2007年10月26日付)。(注:その何%が政府高官のポケットに入ることになるのだろうか)

エンフバヤル大統領は、米国寄りの政策を支持している。この政策は、モンゴルをいっそうの貧富の差の拡大に導くであろう。

もう一つは、民主党と市民の意志党が、2007年10月22日、「2008年度予算案」と「経済社会発展計画」に関し、意見交換を行ったが、この席上、エルベグドルジ民主党党首は、人民革命党第25回大会について、「汚職をした者たちが党大会を開いている」、と述べた(ウヌードゥル新聞2007年10月23日付)。

彼は、2007年10月24日、記者会見をして、「社会主義時代には、人民革命党は帝国主義をすべての非難の対象にしていた。ところが現在は、Ц.エルベグドルジをその標的にしている」、と人民革命党を非難した(ウヌードゥル新聞2007年10月25日付)。

論理的いえば、自らを「帝国主義」に比定したようなものであるが、それはさておき、これは、人民革命党第25回大会の分科会で、同党代議員たちが、エルベグドルジの発言をテレビで知り、それが民主党の公式見解であるか否かを明らかにするよう求めたことに対するものであった。

また、彼は、「(自分の)発言が人民革命党に耳にして欲しいと考えて意図的に行った」。自分(エルベグドルジ)が首相の時(2004〜2006年)、汚職対策を強化した。そこで、「人民革命党出身閣僚10人が私を辞任に追い込んだ。これに私は恨みを抱いている。」

こうして、彼(エルベグドルジ)は、М.エンフボルド現首相・人民革命党党首を「盗人(хулгайч)」だと述べた。また、人民革命党党大会代議員(678人)のほとんどを汚職者だといった(以上、ウヌードゥル新聞2007年10月25日付)。

エルベグドルジらしく、この発言は、大雑把で、扇動的で、もう少し説得的かつ実証的であるべきであった。

いずれにしろ、こうした事態の推移の中で、М.エンフボルド派とエンフバヤル派による権力闘争と、エルベグドルジの干渉を回避する流れが形成されていった。

С.バヤルは、バガバンディ前大統領の系列に属し、「原則」を重視する傾向がある。

この際の「原則」というのは、同党綱領をさす。すなわち、「憲法、民主主義思想を遵守し」、「前の時代の歴史的経験と社会改革に依拠」し、「貧困、失業の撲滅、社会保障制度をモンゴルの特殊性に基づき強化する」、というものである(注:人民革命党「党綱領」は、ウネン新聞2007年10月22付参照)。

エムジン記者が、<人民革命党は腐ったリンゴを捨てた>(ウヌードゥル新聞2007年10月27日付)、とこの党大会を論評しているが、その内容が実行されるかどうかは(注:例えば、人民革命党幹部会メンバーの半数を一般党員から選出し、会社社長がその財力で党・政府官僚になるのを防ぐ、などの規定)、今後をみなければならないだろう。

また、М.エンフボルド首相が辞任し、С.バヤル政権が成立するのかどうか、未だ不明である。(2007.10.28)

(追補)М.エンフボルド首相は、2007年11月2日、辞任願い(すなわち内閣解散申請書)を大統領に提出した。(2007.11.04)

(追々補)М.エンフボルド首相が首相辞任願いを大統領に提出したのを受け、人民革命党新党首С.バヤルは、2007年11月5日、エンフバヤル大統領と会談した(ウヌードゥル新聞2007年11月06日付)。

そして、М.エンフボルド首相は、国家大ホラル(国会)議長に辞意を表明した。これを受けて、2007年11月7日、国家大ホラル(国会)行政制度常任委員会が開かれ、М.エンフボルドの首相辞任を承認した(ウヌードゥル新聞2007年11月08日付)。

これを受け、国家大ホラル(国会)総会は、2007年11月8日、М.エンフボルド内閣の総辞職を承認した(ウヌードゥル新聞2007年11月09日付)。また、人民革命党小会議は、С.バヤルを首相に推薦することを決議した(ウヌードゥル新聞2007年11月09日付)。

モンゴル憲法の規定により、選挙で多数の投票を獲得した政党・同盟が自動的に内閣を組織することになっているので、人民革命党党首С.バヤルが首相に就任することが決まった。(2007.11.11)

(追々々補)2007年11月16日、エンフバヤル大統領は、С.バヤルの首相就任に賛成した(ウヌードゥル新聞2007年11月17日付)。

11月21日、国家大ホラル(国会)行政常任委員会は、С.バヤルの首相就任を支持した(ウヌードゥル新聞2007年11月22日付)。

11月22日、国家大ホラル(国会)総会は、С.バヤルの首相就任を承認した。彼は、記者会見で、汚職、官僚主義、物価値上がり対策に取り組む、と言明した(ウヌードゥル新聞2007年11月22日付)。

11月23日、С.バヤル新首相は、オトゴンバヤル人民革命党書記長らに指示して、組閣について、共和党、祖国党、市民の意志党、民族新党の各代表と個別に会談させた(ウヌードゥル新聞2007年11月24日付)。(2007.11.25)

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