二つの政党の代議員会開催(2006年12月11・12日)

人民革命党小会議(注:代議員会。代議員総数240人)が、2006年12月11日11時、開催された(ウヌードゥル新聞2006年12月12日付)。

私人によって結成された政治団体について論評するのは、基本的には、適切ではない。だが、第一に、この政党のモンゴル近現代史に占める位置は、私的個人の政治団体以上のものがることは否定できない。また、この政党の中にある二つの路線は、モンゴルの今後の歴史を左右すると言っていい。

その意味で、この人民革命党小会議について論評することは無意味なことではないだろう。

人民革命党小会議(代議員会)において、М.エンフボルド党首は、「問題は多くあるが、党内で論議を行うべきである。党綱領を実行するには、安定した政治が必要である。」という趣旨の演説をした。

次に、С.バヤル人民革命党書記長は、「今年はかつてないほど党支持率が低下した。(正しい)批判と中傷を区別するべきだ(注:これは前者を積極的に肯定している)」、と述べ、党内改革の必要性を強調した。

この小会議の焦点の一つは、「伝統・革新ー民主・公正」グループが提案していた「14項目の提案」に対する執行部による回答であった。

Ж.バトエルデネ(「伝統・革新ー民主・公正」グループ)は、(注:彼らは、党改革はなく、幹部と一般党員が分離してしまっている、と批判していた)、14項目の要求の内、1つが受け入れられた。党改革の正当性が明らかになった。同グループに不満はない、と述べた(ウヌードゥル新聞2006年12月13日付)。

これは、極めてささやかな「勝利」のようであるが、実際のところ、14項目の内、8項目は実現されつつあり、6項目は憲法と党則を変えなければならない(から難しい)、という。同党幹部会(注:執行委員会)の職権による回答としては、精一杯のところであろう(注:憲法改正は国民及び国会議員の、党則改正は党大会及び小会議の決定が必要)。

この小会議(代議員会)の評価については、「М.エンフボルドの筋書き通りの非民主的なもの」(上記のウヌードゥル新聞)、というものと、「人民革命党は改革から後退した、という意見は間違っている。会議は成功だった」(ウネン新聞2006年12月14日付)、というものがある。

筆者の見るところでは、С.バヤル同党書記長らが中心になって推進している党内改革は、党内で認知された。この改革は、第22回人民革命党大会(1997年)で決定された人民革命党新綱領への回帰であり、民主社会主義的改革を内包するものである。

一方、М.エンフボルド党首は、エンフバヤル前党首(現大統領)から党指導部を継承したが、彼から次第に距離を置き、この改革路線の方にすり寄っていっている。М.エンフボルドにとって、それが彼の党内指導力強化の最大の近道である、というわけなのであろう。

IMFや「援助」国によるモンゴル介入(注:究極的にはそうなる)によって、貧富の差が拡大し、国民の不満が高まっていく。従来の路線では行き詰まるこことであろう。少なくとも、人民革命党の現状はそれを示している。

さて、民主党民族評議会(注:代議員会。代議員数228人。委任状を含め124人出席)が、2006年12月12日、開催された。

同党出身の国会議員が多数欠席する中で、党首エルベグドルジ主導による党規則改正が行われた(ウヌードゥル新聞2006年12月13日付)。

この党規則改正というのは、主として、2008年の国家大ホラル(国会)議員選挙立候補規定についてであった。その「改正」の一つは、立候補資格が集金力(500万トグルグ)にある(アルディン・エルフ新聞2006年12月14日付)、という驚くべきものであった。

早速、同党選出国会議員たち(注:彼らは、同党民族評議会の決定に反して、「各選挙区に2億5000万トグルグ支給」、という人民革命党提案に賛成した。これを批判されるのを忌避して同評議会を欠席していた)を中心とする「アルタンガダス・グループがエルベグドルジ民主党首解任の企てを始めた」、とウネン新聞(2006年12月14日付)などに揶揄された。

もっとも、エルベグドルジは、「(民主)党のためにすべての党員が奉仕しているのであって、一人の党員のために党が奉仕しているのではない。民主党に分派がない」(アルディン・エルフ新聞2006年12月14日付)と、述べて、この動きを牽制している。

この政党は、常にこうした混沌状態にある。(2006.12.17)

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