
モンゴル政治・政党の分裂傾向(2006年03月14日)
最近、モンゴルの各政党は(注:最高裁判所に登録された政党は現時点で22政党である。人口250万人にしては多い)、指導部に対する党内批判が強まっている。
人民革命党は、党員数が約16万人といわれ、常に最大の支持率(注:約40%。М.エンフボルド政権を強引に成立させてからは、その支持率が30%程度に低下している)を維持してきた。だが、2004年の国家大ホラル(国会)議員選挙の実質的敗北以来、その責任問題が党内民主主義と関連させて、指導部及びその指導方法に、強い批判が向けられてきた。その中から、「伝統・革新、民主主義・公正」グループが生まれた。。また、このグループとは別に、非公式の「新しい改革」グループ(代表Ч.ジャルガルサイハン)が声を挙げ、エルベグドルジ政権更迭支持、エンフバヤルとイデブフテンによる2004年選挙「敗北」の責任、党本部に侵入した諸運動に対するフレルスフたちの抗議集会は誤り、次期政権に民主党を参加させることを主張した(ウヌードゥル新聞2006年01月24日付)。もっともこれは、М.エンフボルド政権成立に前後する時期である。さらに、前エンフバヤル首相側近の政策顧問Т.ガントルガは談話を発表し、2004年選挙の敗北、公務員任命、党首選出方法についての指導部の誤り、党決定が上意下達になった、党内人事が自派に偏るようになり、党内民主主義がなくなった、と述べた(ウヌードゥル新聞2006年03月07日付)。これに対して、Ц.バトバヤルやП.デルゲルナランらの若者が反批判を行い(3月6日)、党内民主主義はある、支持率は上昇しつつあるとした(ウヌードゥル新聞2006年03月07日付)。
民主党は、モンゴルで人民革命党に支持率で唯一対抗しうる政党である。だが、この政党は5党が選挙前に合体した経緯で示す通り、選挙目的(選挙勝利後の官職獲得)の寄り合い所帯である。現在は、ゴンチグドルジたちのアルタンガダス・グループが指導部を占めている。これに民主同盟グループ(С.エルデネ)が参加している。その他、バーバルの北東アジアグループ、エンフサイハン派、旧民族民主党(Д.ガンボルト)などが、党内実権掌握をめぐっていがみあっている。その中から、「民主党改革派」が結成され(2005年11月29日。メンバーは、『ザロー・リーダー』クラブ代表ゾルバヤル、国家大ホラル(国会)議員ガントゥムル、バトホヤグ、М.エンフサイハン、О.エンフサイハン、ムラト、ツォグトトゥムル、ソドフー、エンフトゥル、アルタンオチル、ベフバト)、民主党が人民革命党の補完勢力になっている、と批判していた(2005年11月30日)。そして彼らは、民主党現執行部が左派偏向である、という公開書簡を民主党の全党員に送付した(ウヌードゥル新聞2005年12月22日付)。これと相前後して、党内で孤立していたグンダライが脱党して国民党を作った(2005年11月30日)。また、「民主党を救う運動」が生まれ、2006年1月10日、民主党本部内で「政治的座り込み」(注:党本部から退去しないこと)を宣言し、現指導部の更迭、民主党民族評議会解散、民主党特別大会の即時開催、を要求した(ウヌードゥル新聞2006年01月11日付)。さらに、野党化を宣言したゴンチグドルジ現執行部は、エンフボルド政権に入閣したМ.エンフサイハン、М.ソノムピル、Ж.ナランツァツラルトを除名した(2006年2月9日)。これに対し、「断固改革」運動なるグループは、2006年2月10日、同決定の撤回を要求した(ウヌードゥル新聞2006年02月11日付)。М.エンフサイハン、Ж.ナランツァツラルト、М.ソノムピル、П.オラーンフー、Ц.ツォルモンは、「民主公正党」設立に動いている(ウヌードゥル新聞2006年02月22日、3月16日付け)。
祖国党は、国家大ホラル(国会)内に三番目の議員数を占めている。だが、この政党は結局、鉱山業を基盤とする「エレル」社の利益のために動く党首エルデネバトのワンマン政党であることが、С.オトゴンバヤル議員(祖国党)によって暴露されてしまった(ウヌードゥル新聞2006年02月13日付)。ちなみに、前「祖国・民主」同盟の解体は、当時の民主新社会党単独で(注:つまりエルデネバトによって)行われた、という。こうして、選挙後に7人の議員を擁していたが、現在は、エレル社出身議員3人(プラス、オトゴンバヤル。だが彼もほとんど党会議には出席しないという)のみに減少した。
こうした各政党の分裂傾向の中、市民運動の政党化も進んでいる。かの「健全な社会のための市民運動」は、政党化して一般市民の支持が薄れていく中で、「健全な社会のための党」設立を宣言した。その主張は、自由主義、愛国思想(=民族主義)、中道右派、新リベラル主義、である。彼らは、国民党と共同歩調をとる用意があるが、「コミュニスト」および「ポストコミュニスト」(注:人民革命党のことらしい)と共同歩調はとらない、と宣言した(ウヌードゥル新聞2006年02月14日付)。
このように、М.エンフボルド政権の「影の内閣」結成に動いている「市民の意志党」をのぞいて、各政党は揺れている。
この背景にあるものは何か。
この淵源をたどれば、2004年の選挙結果である、議員数の「究極のバランス」状態にたどり着く。そして、この選挙結果は、前エンフバヤル政権による政策への評価が含まれている(詳しくは、今年度発表予定の拙稿「エンフバヤル政権の性格」参照)。
現憲法下で4代目の大統領になったエンフバヤルは、かつて(2005年12月15日)、2004年度経済成長率が10.6%だったことがエンフバヤル政権(2000−2004年)の最大の功績である、と述べ、また、エンフバヤル政権の最初の3年間に、ゾド被害が大きく、家畜1200万頭が斃死し、35万人が貧困化した。このため貧困問題に取り組むことが困難となった、と述べたことがあった(ウヌードゥル新聞2005年12月16日付)。
この「経済成長率10.6%」という数字も、「ゾド被害による貧困化」も、モンゴルの実体経済を反映していないのだが、彼は、「経済成長と貧困化」、すなわち「貧富の差」の存在は認めているわけである。
エンフバヤルは、成立当初は「中道左派」政策を採ることを明言していたが、2001年のかの米国「貿易センタービル」倒壊を契機として、2001年11月12日、米大統領ブッシュと会見し、「テロリストとの対決」に合意した。その際、彼の「助言」によって、「土地の私有化」による「不動産の市場開放」を確約した。すなわちそれによって、外資の行動を保証したのである(注:固定資産を国有化しないということ)。
この時点から、エンフバヤル政権は、IMF路線に傾斜していく。
IMFによるモンゴルの「構造調整政策」は、経済成長、インフレ率抑制、社会保障・教育費削減、などを骨子とする(注:それはとりもなおさずドル相場の安定、IMFの融資金回収に直結する)。
その結果、「貧困問題」が深刻化して(国民の30%以上が貧困層である)、IMFは「PRGF(貧困緩和成長戦略)」に看板を塗り替えざるを得なくなった。ただ、その「貧困緩和」政策は、IMF資金による「貧困層」への資金融資である。だが、前述の政策の延長にある限り、この「融資」は「貧困緩和」に役立たず、仲介者への資金吸収、汚職蔓延、という事態を引き起こすであろう。そのIMF融資が外部からの資金である限り、「貧困層」の自立には余り貢献しない。モンゴルでは、就業機会は少なく、官僚主義が強固で、インフラが未発達であるから、貸与された融資金は、アルコール飲酒などに向かい、生産への投資に回ることは少ない。
こうして、「貧富の差」は拡大していった。
IMF路線に拘束されている現指導部や、官職のみを追い求める諸政党に対して、モンゴル国民は不満を高めていく。市民運動や政党内部に現状に対する批判が生まれる。2006年2月1日のバス運賃値上げの結果、怒ったウランバートル市民は、「断固革新」運動とともに、市庁舎に押しかけ、値上げを撤回させた。「老人自由同盟」は、年金値上げを要求して、政府官邸前で集会を何度も開いた。
これらの運動の高まりは、国民の支持なしには拡大しなかった。
モンゴル政府はIMF路線を破棄すべきなのである。(2006.03.19)
