人民革命党新党首にМ.エンフボルドが選出された(2005年06月18日)

人民革命党第24回大会が、6月16ー17日に開かれた。この大会は、「新綱領の採択」(注:旧綱領は1997年に採択された。この綱領に基づき、人民革命党は、1996年の国家大ホラル(国会)議員選挙敗北を契機にして、社会民主主義路線に転換した、とされる)、「党名改称問題」(注:モンゴル人民党、あるいはモンゴル国民発展党への党名改称が論議になったが、結局、見送られた)、「党内派閥問題」(注:派閥承認は大会代議員51%以上の賛成で承認されることになった)、そして「新党首選出」、など討議した。

人民革命党党首はエンフバヤルであるが、彼は、今年5月22日に実施された大統領選挙に当選し、6月24日、新大統領に就任予定である。大統領になれば、党を離脱しなければならない。

そこでこの大会では、新しい党首を選出しなければならなかった。

当初、М.エンフボルド・ウランバートル市長、С.バヤル書記長、У.オラーン副首相、Ц.ニャムドルジ法務内務相の名が挙げられたが、後二者が辞退し、М.エンフボルドとС.バヤルとで争われた。そして、18日早朝、エンフボルドが29票差で、選出された。

選考基準は、党内指導力、行政能力、他党との交渉能力、対外的知名度、であった。

ミエーゴンビン・エンフボルドの略歴は、1964年、ウランバートル市生まれ。1982年、10年制第一中学卒業。1987年、モンゴル国立大学経済学部卒業。1987−1989年、ウランバートル市経営サービス局勤務。1989−1991年、企業経営総局勤務。1991−1992年、企業経営局長。1992−1996年、チンゲルテイ区助役。1996年9月ー2000年、チンゲルテイ区住民評議会(区議会)議長。2000年から現在までウランバートル市長、人民革命党ウランバートル市委員会委員長。1990年人民革命党入党。人民革命党常任委員会委員、同幹部会員である(ウヌードゥル新聞2005年06月20日付)。

さて、この大会の特徴は、新党首選出に際して、大会代議員(1179人)が前もって予定された筋書きを拒否した、ということにみられるように(ウドゥリーン・ソニン新聞2005年06月20日付)、党内民主主義を強く求める声が強かったことであった。従来は、上からの指令方式が幅をきかせていた。これに若い党員たちが反発し、フブスグル・アイマグ選出国家大ホラル(国会)前議員エンフトゥブシンたちを中心として、「伝統・革新、民主主義・公正」派が名乗りを上げていた(注:結局は、派閥として認められなかった)。

その大会の雰囲気を意識してか、М.エンフボルドは、インタビューに答えて、人民革命党が「公開性」、「民主主義」、「叡智」、「国民生活向上」、「祖国の発展」に尽力する、と述べている(ウドゥリーン・ソニン新聞2005年06月20日付)。

また、この大会で注目されたことは、バガバンディ大統領が党復帰を表明したことであった。これは、人民革命党が、富裕層の影響が強くなっていること、真面目な党員を遠ざけるようになっていること、党指導部が金銭に左右されていること、などに対する警鐘の意味もある、という(ウヌードゥル新聞2005年06月20日付)。

ちなみに、バガバンディ大統領は、人民革命党に復帰しないで、野党(注:祖国党)と同盟するのではないか、という見方があったが、それはないようだ。

党首選出に際し、エンフバヤルが「エンフボルドを新党首に推薦したい」(注:代議員多数の反対によって、秘密投票になったことは前述の通り)、と述べているように、エンフボルト新党首は、エンフバヤルの路線(注:中道左派、社会民主主義)を継承して行くであろう。

だが、間違っても、資本主義の悪弊は継承すべきではないであろう。(2005.06.22)

(追補)М.エンフボルドは、ジャスライ政権時(1992−1996年)、У.フレルスフ(現国家大ホラル議員)とともに、人民革命党ウランバートル市委員会に押しかけ、党市委員長解任を要求した。また、ダシヨンドンが党首の時(1992年)、最初の派閥を作った経験もある(ウヌードゥル新聞2005年06月23日付)。

また、2004年の国家大ホラル(国会)議員選挙後、7月5日、「公明選挙運動」が解放広場で集会を開いた際、エンフボルドは、フレルスフと共に参加し、再選挙を要求したこともある(モンツァメ通信2004.07.06)。

フレルスフは、ヘンティー・アイマグ選出の人民革命党最年少議員で、現在は災害対策相である。ちなみに、筆者たちの調査グループが、2004年にヘンティー・アイマグのガルシャル・ソムで調査をしていた際、偶然彼と遭遇し、話をしたことがある。なかなか行動力のある、人なつこい若者である、との印象を持った。

であるから、エンフボルドは、必ずしも守旧派であるとは限らない、とみるべきであろう。(2005.06.26)

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