2005年大統領選挙の結果をどう見るか(2005年05月22日)

モンゴル新憲法施行(1992年)下での第4回大統領選挙の投票が、2005年05月22日、行われた。

(バヤンゴル区第15投票場)

(同投票場風景)

(投票用紙受取証明)

立候補者は、エンフバヤル(人民革命党)、エンフサイハン(民主党)、ジャルガルサイハン(共和党)、エルデネバト(祖国党)の4人だった。投票率は約74%で、得票率は、エンフバヤルが53.46%、エンフサイハンが19.76%、ジャルガルサイハンが13.92%、エルデネバトが11.40%をそれぞれ獲得した。その結果、エンフバヤル(人民革命党)の当選が決まった。

この結果をどう見るか。

前の「モンゴル時評」で書いたように、モンゴル国大統領は、憲法の一部修正によってその権限が弱められ、モンゴル国「統合の象徴」という地位にある。従って、この結果がそのままモンゴル社会経済に与えることはない。ただ、候補者がそれぞれの党の党首かもしくは前党首であるから、彼ら個人及び国内政治に与える影響は少しはある。

まず、今回の大統領選挙の特徴は、すべての候補者が「公明選挙」、「貧困緩和」、「就業機会の拡大」、「汚職追放」を訴えていたことから、それほど際だった争点がなかったことである。すなわち、誰が大統領になっても状況は変わらない、という認識がモンゴル国民の間に浸透していた。そのため、投票率が74%前後という、低投票率(モンゴルでは)になってあらわれた。

だが、少しは各候補者の選挙公約に違いがあった。エンフバヤルに対抗するとみられていた、エンフサイハンが「社会資源の公正な分配」、「汚職追放」を全面に出して選挙戦を戦った。

ただ、逆に言えば、これがエンフサイハンの意外な苦戦の原因となった。つまり、「社会資源」を外資に売り渡した「鉱山法」改正案を主導したのがエンフサイハンであったこと、「汚職」がもっとも甚だしかった民主同盟連合政権時代(1996−2000年)にエンフサイハン自身が首相だったこと(1996−1998年まで)が、その公約の実現性と真実性を弱めてしまった。

第二に、各候補者は、大統領当選をねらうにしては、その公約が政府高官(財務相や法務内務相)の職務内容(注:「貧困緩和」、「就業機会の拡大」、「汚職追放」)であった。つまり、大統領の職務内容とは少し異なっていた。これも有権者をクールにさせる原因となった。

この選挙前及び選挙期間中に、「健全な社会のための市民運動」参加者が集会、デモ行進を行ったが、最終的には、彼らは、政府官邸にトマトや卵を投げつけ、器物を破壊してしまって、市民のひんしゅくを買った。彼らは、その攻撃対象をエンフバヤルに絞って、「エンフバヤル=スターリン」、「エンフバヤル=独裁者」と非難した。エンフバヤルはその挑発に乗らなかった。

新聞各紙も、エンフバヤルが、タバントルゴイ、オユトルゴイ問題、対ロシア負債返済をめぐる5000万ドル問題、農牧業銀行および商業発展銀行民営化問題、TB9報道などの疑惑を抱えていると再三報道していた(ウヌードゥル新聞2005年05月16日付)。選挙終盤には、エンフバヤルがロシアに広大な別荘を持っている、という記事まで出た(ウドゥリーン・ソニン新聞2005年05月18日)。こうした個人攻撃にエンフバヤルはそれほど反撃しなかった。

エンフバヤルの公約は、「モンゴル国民は団結すれば強くなる」というものであった。こうした攻撃に耐えたことがこの「公約」実行と一致した。市民の意志・共和党は、5月11日、今回の大統領選挙では、誰も支持しない、と発表していたが(ウヌードゥル新聞2005年05月11日付)、5月18日になって、他候補陣営がエンフバヤル候補に対して行っている個人攻撃を非難し、エンフバヤル候補を支持することを表明した(ゾーニー・メデー新聞2005年05月19日日付)。この事実は、モンゴル人の判官贔屓の一つの傾向を示すものだともいえるだろう。

さて、繰り返すが、この結果がモンゴル社会経済に与える影響は少ない。ただ、ジャルガルサイハンの得票率が、ウランバートル市ナライフ区やバヤンゴル区など小商業・産業地域で高く、国家大ホラル(国会)での、「就業機会の拡大」を求める彼の活動が積極性を増すだろう。

エルデネバトは、出身地のフブスグル・アイマグで得票率一位になった。また、過疎と電力不足に悩むザブハン・アイマグでも健闘した。ザブハンはバガバンディ大統領の出身地でもある。彼らは、この両地方を基盤に、盟友として今後の政治活動を進めるかもしれない。

一方、エンフサイハンは、5月23日深夜、選挙結果がまだ確定していないにもかかわらず、敗北を潔く認め、エンフバヤルに祝福の携帯電話を送った。この行動は、モンゴル人の大いに賞賛するところであろうが、彼の政治的影響力低下は免れようがない。

エンフバヤルは、大統領に就任すれば、人民革命党党首および国家大ホラル(国会)議長を辞任することになる。逆にそれが彼の政治的影響力を弱めることになろう。人民革命党の次期党首問題が今後、浮上する。

更に、かの「健全な社会のための市民運動」が、今後、その行動をどう進めるか、ということも注目しなければならないだろう。

この大統領選挙後における、彼らの動向が注目されよう。(2005.05.23)

(追補)前記の投票結果は、筆者が選挙後のテレビ報道を視聴した時の数字であった。その後、選挙管理委員会は、5月30日、国家大ホラル(国会)副議長ルンデージャンツァンに正式の選挙結果を報告した。

それによれば、投票率が74.98%、得票率はエンフバヤルが53.44%、エンフサイハンが20.05%、ジャルガルサイハンが13.83%、エルデネバトが11.33%であった(ゾーニー・メデー新聞2005年05月31日付、アルディン・エルフ新聞2005年05月31日付)。数値に少し違いがあるが大勢は変わらない。

各候補が獲得した得票率の特徴は、前に述べたことと重複するが、エルデネバトがフブスグル・アイマグで39.85%で第一位、ザブハン・アイマグで23.62%で第二位、である。フブスグルはエルデネバトの選挙区であり、前に述べたとおり、反中央政府気運の強い地域で、ダルハト人やツァータン人の居住地域である。ザブハンは近年ゾド(雪害)や電力供給が絶たれ、政策不備に強い不満を持つ。かつバガバンディ大統領の出身地でもある。この二人が今後同盟する可能性は十分ある。

ジャルガルサイハンは、ボルガン、セレンゲ・アイマグという農牧業地域、ゴビスンベル、オルホン・アイマグという工業地域、ドルノゴビ、ウムヌゴビ・アイマグという鉱業地域(彼は遊説に先立ちこの地域にあるオユ・トルゴイ鉱山を視察し、外資優遇政策を非難していた)、ウランバートル市ソンギノハイルハン区、ナライフ区という小商業、鉱業地域で、それぞれ20〜30%の得票率だった。彼が今後この地域での得票に勢いを得て、「就業機会の拡大」、「国内産業育成」を主張するであろう。

エンフサイハンは、バヤンウルギー、ドルノド、ヘンティー、スフバータル・アイマグで20〜30%の得票率であった。エンフバヤルは、地方よりもウランバートで得票率が高い傾向を見せている。興味深いことは、この傾向が2004年10月17日実施の地方議会選挙の結果と著しく似ていることである(スフバータル・アイマグを除く)。これは、人民革命党と旧「祖国・民主」同盟との最近の支持基盤に対応する。(2005.06.01)

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