国際援助機関融資と飲酒(2003年05月16日)

今週(2003年05月12日〜)は、月曜日から雨が降り続いた。気温も下がり、冬(日本の)が来たかのようだった。モンゴル人は、雨を悪いものだとはみないようだ。実際、ひどい雨以外(もっとも、アフリカ・エチオピアで経験した滝のようなスコールはない)、傘も差さず、平気で歩いている。男性はもちろん、女性も長い黒髪をなびかせながら歩いておる。いっこうに意に介する気配はない。むしろ、山火事が鎮火に向かう、と歓迎している。だが、洪水の危険はある。筆者の近辺を流れるセルベ川は増水だ。ゴミも流してしまう。この川の行き着く先がどう汚染されるのか心配になる。

と言うわけで、今週は、モンゴル人にとって、悪い一週間ではなかったようだ。特に論評するべき事柄も、筆者にはない。そこで、和辻哲郎の『風土』風に、主観的に、モンゴルを象徴するような出来事を取り上げて、論評を加えてみよう。

世銀による「経済力強化のための技術・援助融資計画」に基づいて、4100万ドルの融資が行われる。そのうち、4万1000ドルが前払いされた。その中から、4300ドルが設備改良に用いられた、と言う。ところが、この金が使途不明になっている。これに関して、国会で、М.ダライフー議員が、財政経済省担当者にただしたが、回答が得られなかった(ウドゥリーン・ソニン新聞2003年05月15日付)。

その後、同新聞の後続報道があり(ウドゥリーン・ソニン新聞2003年05月16日付)、財政経済省副大臣Ц.ダミランが語るところによると、この融資計画は、総額837万ドル、期間3年であるという。その使途は、予算作成費および管理費、アイマグ・ソムでの研修費に充当される。そのうち、400万ドルがзθвлθх Yйлгээн(注:懇談会役務、日本でいう懇親会)の費用に使われている。その使途について、議員からの批判がある、という。

一致しているのは、議員の批判がある、ということだけで、金額の食い違いが甚だしい。ただし、ジャーナリズム報道と官僚証言の、モンゴルの従来の習癖から判断すれば、後者が実数に近いのかもしれない。

この「使途不明」というのが、今回のテーマである。

モンゴルは、1990年代の経済混乱によって、1980年代までの経済・文化インフラを一挙に崩壊させてしまった。崩壊させておいて、復興に手を貸そう、というのは、米国でのイラク復興のようであるが、それはさておき、各種国際援助機関から、復興・強化の名目で、多額の資金がモンゴルに流入する。それを有効に活用するほどには、国内産業が成長していないから、その大半は、途中で費消される。大半が補修費・人件費に充当される。借金経済、泥棒資本主義、と言うわけである。

かつての清朝植民地支配期のモンゴルで、封建王公・ラマ僧が、清朝高利貸資本から得た資金で、生活を享受し、その借金の返済を(もちろん不可能であったが)、配下の従属民(ソム牧民、ハムジラガ、シャビという)に転嫁した。

それに怒った牧民たちは、牧民運動を起こした。

筆者には、時代も生産様式も違うが、上記の事態と牧民運動がだぶって見える。

次に、ゾーニー・メデー新聞(2003年05月15日付)の三面記事によると(もっとも同新聞の第一面に掲載されている)、モンゴル国立大学教員С.ドンドグが(酒に酔って)バスから降りようとした時に、混んでいて降りられないので、近くにいた女性教師を殴打し、脳しんとう、骨折させた。この女性は、病院で加療中であり、三面記事どころではなく、告訴の予定であるという。

モンゴル人は、歴史的には、ラマ教信仰を得てから、性格が温厚になった、と言われる。筆者の周りにいる人々・若者たちも、優しくて、親切な人々が多い。しかも、食事は質素で、スープや、自分でこねて作ったうどん(勤務時間にも作っている)と田舎の親たちが作って持たせてくれた乾燥肉を砕いたものを混ぜて作った料理を食べている。従って、若者たちは、ほっそりとしてスマートである。ところが、筋肉は柔軟かつ強力である(女性もしかり)。重い机など、簡単に持ち上げる。

この人々が、酒に酔うとどうなるか。人格が変わるかのようである。上記記事に加えて、最近でも、上記のダライフー国会議員が酒に酔ったまま、審議中の法務委員会に乱入し、さんざんニャムドルジ法務内務大臣をののしって、そのまま退場した。委員会はその後、静まりかえった、ということもあった(後注:ウドゥリーン・ソニン新聞(2003年05月19日付)は、その後日談として、ニャムドルジが、5月16日(金曜日)の国会審議で、上記ダライフー議員による人身攻撃に対し、私は大臣であると同時に国会議員である、おまえに批判されるいわれはない、と反撃した。トゥムル・オチル議長が仲介に入り、ダライフー議員に対し、中傷しないで議論するように促した、という記事を載せている。このように、酒がらみのエピソードは数多い)

であるからして、歴代政権は、禁酒運動を実行するのだが、成功しない。最近では、オチルバト元大統領が、モンゴルをアジアの虎(バル)にするのにではなく、酒場(バール)にした、とからかわれる始末である。

モンゴルでは、アルヒ(酒)は40歳から、と言われるそうだが、とても信じられない。先日、筆者の部屋を訪れた若者(大学1年生18歳)が、高校(10年生中学校)の恩師(30歳)が、郷里のサインシャンドからウランバートルに来た、再会を祝してともにアルヒを「3杯」だけ(筆者は信じてはいない)飲んだ、と赤い顔をして言っていた。この若者は、数字を見ればたちどころに覚えてしまうほど数学が強く、なかなか優秀な学生である。

この飲酒と国民性の関係は、俗説を含めて数多く論じられている。筆者は、これを生産様式や生産関係と関連づけて論ずれば、また新しい発見があるのではないかと思う。(2003.05.18)(2003.05.19補訂)

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