2002年度秋期国会開催(2002年10月01日)
2002年度秋期国会が10月1日午前10時から、出席議員60名(全議員は76名)で開会した。憲法の規定により50日間を下回らない期間で審議が行われる。1990年代以前の習慣で、政府指導部の冒頭演説は重要なものである。かつては10数時間もの間演説が続いたものだが、現在はそれはない。
今期国会でも、国家大ホラル[=国会]議長、大統領、首相が冒頭演説を行った。国家大ホラル法の規定によれば、それに引き続き、政党会派の演説が行われることになるが、与党党首が首相を兼務していることと、規定により議会会派構成要件が八議員以上である、ということから、野党の演説がなかった(これについては後述)。
何れにしろ、その冒頭演説は、政権の基本的性格を反映する。その意味で、モンゴルの現状を知るための格好の手段でもある。今回も例外ではない。
ここでは、特に大統領と首相の演説を取りあげる。まず、バガバンディ大統領は、国政全般について述べた。それは、@土地(所有)法の成立という「成果」、A国内産業振興がある程度実現した、B外資企業誘致の奨励、C自然災害防止の取り組み、D汚職対策と、そのための法規制強化の必要性、E貧困緩和政策の必要性、F年金・給料引き上げの成果、などについてであった。
次に、エンフバヤル首相の冒頭演説は、現政権の政策が述べられた。つまり、@マクロ経済の安定化のための努力、A教育・保健部門への投資、B失業率低下、C官僚主義を打破すべきであること、D「ミャンガン・ザム(世紀の道)」への投資を通しての経済の浮揚、E国会議員補欠選挙での政権「評価」、FIMF・世銀からの助言の受け入れ、G観光部門重視、H最低賃金の引き上げ実施、I家畜所有頭数500頭以下の牧民世帯(牧民全体の98%を占める)への教育費援助と免税の実施、J土地を市場経済での取引対象にしたこと、K経済特区建設、L「地域発展構想」、についてであった(ウヌードゥル、ゾーニー・メデー、ウドゥリーン・ソニン新聞2002年10月02日付参照)。
この両演説の内容は、それぞれが現代の直面する問題を照射している。また、指摘されるほど、その成果が際だっているというわけでもない。
そのせいでもあろうか、今国会の冒頭で、一つの混乱が生じた。それは、四人の野党議員の一人、民主党選出国会議員グンダライの行動であった。
前述の通り、政党会派構成条件が満たされないため、与党は野党の国会冒頭演説を拒否した。これに抗議するため、グンダライは、首相演説が始まると同時に、議席上にポスターを掲げた。それには、「野党の主張に耳を傾けよ」、「貧しい牧民に免税措置をとれ」、「行政の介入した選挙をやめよ」、「土地横領を中止せよ」、「民主主義から後退した(政府の選挙)公約を破棄せよ」、と書かれていた。
このため、議場が騒然とし、首相が演説を中止せざるを得なくなり、議長の指示により議会職員がグンダライを取り囲んだ。
ビャンバドルジ国会副議長がグンダライの議席のもとに行って、「ここは路上ではない」と言って、そのポスターを取り上げようとした。
そもそも、このグンダライは、無所属候補として当選し、その後民主党に加わったのであって、よく言えば独立心あふれる行動派、あるいは武闘派(暴力団ではないのだが)である。ビャンバドルジのほうも、1996-2000年の民主同盟連合政権時代に、人民革命党内で独自の行動をしばしばとっていた。だから、ビャンバドルジが議長代理をしている時に、グンダライが不規則発言をして、口論になったこともあった。いわば、似たもの同士、従って、犬猿の仲である。
また、ルンデージャンツァン議員は、民主主義から逸脱した行動である、とグンダライに抗議した。興味深いのは、この時、ニャムドルジ法相がグンダライに近づき、君のアルコール事件を暴露するぞ、と「忠告」したという(ウフードゥル新聞2002年10月02日付)。なにやら陰謀めいてくる話である。
ポスターの一部を議会職員によって取り上げられたグンダライは、これは「コミュニスト」のやり方だと叫んだ。
その結果、午前11時に一時休会が宣言され、議員達は議場から退場した。グンダライは抗議のため議場にそのまま残った。
12時に、国家が再開され、エンフバヤルは演説を始め、グンダライが再びポスターを掲げた。だが、今度は混乱はなかった....。
以上の事態は、意見を封じられているという野党の焦燥感と、その内容に見られる通り、国民の不満の反映でもあるのだが、いささか、品位を欠く。
野党議員のオヨンは、後の記者会見で、「グンダライを支持する」と答えていたが、後に、その真意を問われて、「その方法は別として」と付け加えていた(ウヌードゥル新聞2002年10月04日付)。
モンゴル民主化運動において、バト=ウールなど民主化運動「無頼派」と政府・人民革命党内強硬派との間の調整役を果たし、流血の惨事を未然に防いだ(1990年4月25日、スフバートル広場での軍警察と集会参加者との一触即発事件)、ゾリグの遺志を継ぐという、妹の面目躍如たるものがある。
これを契機として、与党は言論封じに傾くことが気がかりである。(2002.10.09)
