
モンゴル国会議員第36選挙区補欠選挙の結果をどう見るか(2002年09月08日)
2002年09月08日、人民革命党の有力議員だったゼネーの病死に伴う、第36選挙区国会(=国家大ホラル)議員補欠選挙が行われた。人民革命党からはバトボルド(住民代表者協議会=地方議会議長)、民主勢力連合(市民の意志・共和党および民主党による同盟)からはДо.ガンボルド(前国会副議長)、民主新社会党からはゴンボジャブ(元外務大臣)、無所属からはエルデネビレグ(会社経営者)が立候補していた。
有権者9865人のうち、7031人が投票して(投票率71.27%)、人民革命党推薦候補バトボルドが51.44%の得票率で当選した。
この選挙は、次のような特徴を持つ。
この選挙区は、トゥブ・アイマグの中心地(県庁に相当)のゾーン・モド、アルタンボラグ・ソム、バヤン・ウンジュール・ソム、ブレン・ソムからなる第36選挙区である。元来、首都ウランバートルとともに、清朝支配期(1691-1911年)にはトゥシェート・ハン・アイマグに属していて、ハルハ・モンゴルの中心地であって(植民地総督府というべきウリヤスタイ定辺左副将軍府はモンゴル西部地方のウリヤスタイにあったが、これは対ロシアをにらんだ清朝の政策上のことにすぎない)、人民革命(1921年)後の1931年1月13日に、トゥブ・アイマグが作られ、1942年にゾーン・モドがウラーンバートルから分離して、アイマグ中心地になった。トゥブ・アイマグ全体としては牧畜、鉱業を中心としているが、特に、この選挙区のアルタン・ボラグ・ソムは、旧トゥシェート・ハン・アイマグのダルハン・チン・ワン・ホショーという中枢の地域であったし、ネグデル(農牧業協同組合)解体後(1991年)は家畜の私有化が(「民営化」称するが)進行し、家畜千頭以上を所有するミャンガト牧民も多い。また、バヤン・ソムとウンジュール・ソムが合併して(1978年)、バヤン・ウンジュール・ソムが作られたが、このソムも1994年時点ですでにミャンガト牧民が67家族も出現していた。ブレン・ソムも、もと「ブレンデルゲレフ」・ネグデル(組合員634人)だった地域である。
従って、この選挙区は、アイマグ中心地と、牧畜の盛んな地域からなる、モンゴルを縮図にした地域である、ということだ。しかも、首都ウランバートル(人口80万以上)に近い。
この地方は、ここ2年間のゾド(雪害)およびガン(干ばつ)によって、家畜の斃死、家畜頭数の激減、牧民の隣接地域への移動、人口の減少という、危機的状況を迎えている。
こうした、モンゴルの地理的、時間的縮図である選挙区で、得票率は、人民革命党候補が51.44%、民主勢力連合候補が30.93%、民主新社会党候補が16.54%、無所属候補が1.5%であった。
選挙後、全国選挙管理委員会委員長ヤダムスレンが記者会見で言うように、モンゴルの選挙法で規定している、「得票率が50%以上なければ無効である」、という点をクリアしていること(再選挙は予算的に難しいだろう)、若干の選挙事務に不手際があった(選挙管理委員会印のない投票用紙で投票した13人の投票が無効にされた)のを例外として、重大な問題は起きなかった。
だが、2000年の選挙の時には投票率が90%以上だったのに比べて(モンゴルでは選挙はナーダム(祭り)と同様、晴れ着を着て、遠く離れたところから投票所にやってくる)、その投票率が低下した。これは、最近、モンゴルでは政治に対する関心が低下している、という調査結果が出されていること、ゾドによって他地域に移動していった人々が投票に来なかったこと、新学期(9月1日)が始まってウランバートルに行った若者が棄権したこと、などが原因だろう。
その得票を分析してみると、ゾーン・モドでは、2選挙区(ゾーン・モド3バグ、ゾーン・モド5バグ)に分かれているが、合算すると、人民革命党候補が41.24%、民主勢力連合候補が41.44%とほぼ互角である。これは、首都ウランバートルの選挙勢力配置にほぼ対応する。一方、その他の遊牧地域では、それぞれ、58.04%と28.03%に差が開いている。これも全国的傾向と同じである。
つまり、1990年代に進行した、経済混乱、倫理低下、貧富の差の拡大が、都市では、政治指導部への批判となり、悠久な時間と広大な自然の中で生活を営む牧民達は、それ以外の要素のほうが重要である(自然への対応、仲間意識など)と見なされるのであろう。もっとも、家畜を失って、都市に移動する牧民は、政権担当者に批判的なることもあるだろう。
選挙結果を受けて、エンフバヤル人民革命党党首は、1)政府が重要な課題に取り組んでいることを有権者は評価した、2)有権者は故ゼネーを尊敬している、3)バトボルドは彼の後継者であると見なされた、と述べた。
一方、ドルリグジャブ民主党党首は、1)選挙民を酒などで供応した陣営がある(もっともエンフバヤルも同じことを述べているから、その他の陣営がしたのか両方がしたのか不明)、2)人民革命党の得票率が2000年の時の70%から50%に低下した、これは、2004年に統一候補を出せば勝利できると言うことである、3)情報に接することが多い選挙区で民主勢力連合が勝利したことは、そうではない地域では人民革命党が情報を独占しているからだ、と述べた(ウヌードゥル新聞2002年09月10日付)。
それぞれ我田引水の観があるが、確かにこの選挙結果から見れば、汚職まみれではない、政策展望を持った、野党候補が統一候補になるならば、政権交代はあるかもしれない(この補欠選挙では政策は提示されず、野党候補は単に人民革命党がその公約を実現するように要求しただけだった)。
ただ、アメリカのレーガンの影響下に生まれた団体( the International Republican Institute (IRI) )もおなじことを、ちがった意図で述べているから注意しなければならない。(2002.09.16)
