ロシア情報局代表団のモンゴル訪問〜政治粛清犠牲者との関連でみると(2002年07月16日)

ロシア情報局代表団が、2002年07月16日、モンゴル情報局創設80周年行事に出席のため、モンゴルを訪問した。そして、エンフバヤル首相と会談し、両国情報部の「協力」と、関係「強化」について話し合った。

ウヌードゥル新聞(2002年07月17日付)によると、その会談の内容は、モンゴル、ロシア両国に係わる、犯罪、麻薬問題、貿易の安全保障、スタッフ(情報局要員)養成、国境侵犯防止などについてのものだったようだ。

ということは、やはり、マネー・ロンダリング、密輸、麻薬取引など、ロシア・マフィアに関係する犯罪、関税を巡るトラブル、両国情報網の再編・構築、トヴァなどの国境地域で頻発する家畜泥棒などの問題が、モンゴルとロシアの間で深刻さを増している、ということをうかがわせる。だが、ここでは、両国軍事・情報組織に関わる歴史的問題を見てみよう。

元来、遊牧民にとって情報の取得は、必須の生業手段である。牧地の選定、先住者の存在の有無などを前もって知ることは重要なことであった。農耕民が天気の変化に敏感で、各種の現象に対して豊富な知識を持っているのと同様であった。

このことは、匈奴以降のモンゴル系遊牧民族による、洗練された情報取得技能についてはさておき、チンギス・ハーン「帝国」での、情報取得重視の例だけをあげると、かの「元寇」で、前もって使節を派遣し、相手の出方をみる(これは、同時に日本に関する情報取得のための要員が同行したことを意味する)、といったことがある。

ここでは、情報局創設80周年ということで、1921年以降の問題について述べよう。

モンゴル情報局創設に関していうと、第一に、それは指導者の権力獲得手段となった。1922年の創設期には、ソヴィエト極東共和国から派遣されたジャムツァラーノたち、いわゆるブリアート社会主義者によるモンゴル国家建設が行われた。1930年代には、チョイバルサン(彼はいわゆるKGB要員でもあった)による、権力獲得の手段として、情報局が利用された。

第二に、1940年代以降、情報局のスターリン支配体制への組み込みが進行し、軍事面でのソ連への従属(モンゴル人は「依拠」といっているが)をもたらした。こうした事態に対する抵抗が後に民主化運動を生み出していく。

そして、第三に、やっと本題にたどり着くが、タイトルに掲げた政治的粛清犠牲者を多数生み出した。これも民主化運動以降、彼らおよびその家族関係者救済が重要な課題となっていく。

この政治粛清犠牲者は、1920年代には、民族主義者の抹殺、1930年代にはラマ(知識人と同義)や富裕牧民の粛清(特に、1997年9月10日に起こった政治的粛清は、かのハルハ河戦争[ノモンハン事件]遂行のために起こされたもので、この日を忘れないため、モンゴルではこの9月10日を「政治的粛清者の日」としている)、1940−70年にはソ連=スターリン体制批判者追放、などによって、直接的(本人)、間接的(家族・関係者)に多大の、口に言い尽くせないほどの危害を被った。

その詳細を調査する、政治粛清犠牲者調査委員会が1990年代に作られ、さらに、1998年には議会で「政治的粛清者補償法」が可決された。今のところ、3万人足らずの人々が名誉回復し補償されているにすぎない。

現に著者の知っているモンゴル人も、父親がラマ僧だったため、1930年代に粛清された。だから、父親の名前を採らずに、兄の名前を用いて、「兄の名前」「の」・「自分の名前」(注:この名前の付け方が1921年以降の習慣である。もっとも、ファミリー・ネームはもちろんある。つけないだけである)としている。

現在は、ソロス基金が中心になって、モンゴル各地の情報関係の整備が進行中である。今後この動きがどのように進行するかはよく見ておかなければならないだろう。

このように、モンゴルにおける情報(軍事を含めて)問題には、明と暗の部分があることを、我々は知っておかなければならない。(2002.07.29)

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