
野党幹部、米に集合、与党有力議員、病死(2002年06月10日)
国家大ホラル(国会)で野党は76議席中4議席を占めている。そのうち民主党が2議席である。その民主党の党首ドルリグジャブ、同党民族評議会委員Да.ガンボルド、同党国際関係局長Ц.スフバータルは、世界民主主義協会の会議(三年に一度開催)に出席のため渡米した。
これに合流する形で、1996−2000年の民主同盟連合政権期に首相を務めていた(そして同政権の中ではもっとも腐敗していたといわれていた)エルベクドルジが加わった。エルベクドルジは、2000年の選挙で落選後、ハーバード大学留学のため渡米していた。このほど修士課程を修了した(6月8日)。
6月10日、この四人は、ブッシュと会見した。ブッシュ曰く、「右派的傾向をもつ政党(民主党のこと)が人権、安全なビジネスを保証してくれることを希望する」。一方、この野党幹部たちは、モンゴルの情勢、モンゴルとアメリカの関係、民主党の米共和党との連携、などを説明した(オドリーン・ソニン新聞2002年06月13日付および18日付)。
ドルリグジャブはエルデネト社社長当時の背任疑惑で告訴されることも予想されている。エルベクドルジは1998年10月2日に起こったゾリグ暗殺事件に関与がとりだたされおり(詳細はドジョードルジ『誰がゾリグを殺したか(モンゴル語)』参照)、留学ではなく、アメリカに逃亡したのではないか、という辛らつな批評もなされていた。硬骨のジャーナリスト・ドジョードルジなどは、首相が留学とは、モンゴル政治の水準を世界に示すものだ、といいはなっていた。
エルベクドルジは、ドルリグジャブの後見人で、渡米中の自己の権力温存を意図して、ドルリグジャブを党首にしたとも言われている。
Да.ガンボルドは、1990−1992年のビャンバスレン政権期に第一副首相を務めていた。エルベクドルジ政権が崩壊した後、次期首相の一番手だったが、失政の張本人だったので、実現しなかった。
これら民主党幹部三人(プラス一人)が、元来選挙目当てで野合して、勢力衰退気味である、民主党の命運を、米共和党との連携に託したわけである。かつて、民主同盟連合政権成立時に、エルベクドルジは米共和党の選挙戦術「選挙民との契約」をモンゴルで実践し(当然資金援助も得て)、政治的地歩を築いた。米留学でさらにその手法に磨きをかけ、2004年の国会議員選挙で、政権奪回を意図しているのであろう。
ブッシュ政権としては、現政権にも十分期待しているのであるが、さらにその戦略を強固にしておこう、というのであろう。元来、アメリカの対第三世界戦略は、自分の思い通りになる現地政治家を一人養成することにおかれていた。例えば、アフリカの資本主義の優等生(といわれていた)ケニアでは、1960年、トム・ボヤという政治家に肩入れした(彼は暗殺されたが)。
一方、与党人民革命党の有力議員で、バガバンディー大統領派だったゼネーが、6月10日、病死した(ちなみに、これはどうでもいいことだが、筆者が1987年の国際モンゴル学会に出席した時に、これとよく似た、人なつこい、黒い顔の人物に、レセプションの料理を食べろ食べろと言って話しかけられたことがある。ゼネーもまた歴史研究者だったことは後で知った)。2001年1月16日のヘリコプター墜落事故死したオトゴンビレグに続くもので、人民革命党大統領派にとって痛手であろう。(2002.06.20)
