民主党などによる反政府集会開催(2002年4月15日)

2002年4月15日12時、スフバートル広場で、民主党、民主同盟、労働組合連合主催の反政府集会が開かれた。参加者数は、報道機関によってまちまちだが、民主党系の『ウドリーン・ソニン』新聞は1万人、電子新聞"MongoliaThisWeek"は3千人、人民革命党機関紙『ウネン』および"MONTSAME"は1千人としている(いずれも4月16日付記事)。

政府に対して、@30%の減税、給料・年金の50%増額、A首相の汚職疑惑(5億トグルグの収賄)非難、B議員歳費7億6千万トグルグ支給の取り消し、など7項目の要求を掲げた。そして、エルデネ(民主党副党首)、アルタンホヤグ(民主党書記)、ドルリグジャブ(民主党党首)、グンダライ(民主党国会議員)、ゴンチクドルジ(前国会議長)その他が次々と演説を行って、エンフバヤル人民革命党政権の辞職を要求した。

ゴンチクドルジはハンスト決行も示唆した。さすがにこれには、あとで述べるように、人民革命党は気になったか、さっそく機関紙『ウネン』で、この集会は国民の声を反映しない、私的な集会にすぎない、と反論を試みている(2002年4月16日付)。

犯罪者数および失業者数の減少、国家歳入増、などを根拠にして、エンフバヤル首相は経済の安定化を語り、外資導入に血眼になっている。

なぜこの時期に、どちらかといえば唐突に反政府集会が開かれたのだろうか。

日本の丸紅香港支店がボヤン社の「ジャガー」ことジャルガルサイハン(前共和党党首、現市民の意志・共和党副党首)に融資した資金の焦げ付いたが、この「融資」の保証をしたのが、ジャスライ人民革命党政権(1992-96年)であったこと、APU社民営化をめぐる新旧経営陣の紛争と当該社取得企業の背後にロシア・マフィアの存在があるとされること、などをとらえて、最近不人気をかこっている民主党が自己の存在をアピールしようと考えたのだろうか。

だが、それにしてもなぜこの時期なのだろうか。実は、ジャスライ政権の1994年4月15日にも、同じようにジャスライ政権の汚職を非難して、当時の民族民主党と社会民主党が反政府集会とハンストを行っていた。このハンストは、1990年3月、民主化運動が燃え上がった時期の行動を踏襲したもので、1990年ハンストは民主化運動による反政府行動に大きなインパクトを与えたものであった。

だから、1994年の反政府集会・ハンストは、民主化運動の栄光がまだ残っていたことから、モンゴル国内外にいくらかのインパクトを与えた。ただ、民族民主党はすでにこの行動からは、実効性が疑問である、という口実で、消極的であったし、経済が底を打った時期であり、モンゴル国民はそれほど支持を与えなかった。むしろ、この行動を通じて、「民主化勢力」の分裂傾向、経済利得追求志向などがあらわになってきていた。

いずれにしろ、この行動そのものは少しのインパクトではあったが、2年後の民主同盟政権への国民(特に若者)の支持につながった、、ということは否定できない。

こうしたことをふまえて、現在のところ、確実な史料がないので断言はできないが、社会民主党系、それもゴンチクドルジ・グループが主導して、この2002年4月集会を組織したのであろう。

つまり、2002年集会は次期国会選挙勝利を目的にするものである、ということだ。

ところが、1994年と2002年とでは状況がそうとうに違う。1994年は民主同盟に対する幻想がまだあった。2002年は、それがない。民主同盟に対する幻想は、民主同盟連合政権(1996-2000年)による失政・汚職で、もはやない。

そこのところを前述の『ウネン』紙は反論の余地はないほどについている。

一方、エンフバヤル政権も、ジャスライ政権の行動にだんだん似てきているようだ。それについては、また別の機会に譲るとしよう。(2002.04.25)

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