前期牧民運動の帰結

*この論文は、『モンゴル研究』第2号(大阪外国語大学モンゴル研究会、1976年4月)に掲載されたものです。古いスキャナーでかつて読みとったものなので、日本語が不完全です。ですから、詳細は上の研究誌を見てください。

前期牧民運動の帰結

村井宗行

 問題の所在
 一、牧民運動史研究の分析視角
 ニ、いわゆる「チングンジャブの反清闘争」における牧民の行動
 三、清朝のモンゴル支配における牧民の位置
 四、牧民の訴訟闘争
 結語

問題の所在

 歴史は人民によって作られる@。この主張が一つの発言権を得たことは今日ではもう否定しがたいことであろう。ではこの主張を豊富化する作業が完全なものとして行なわれただろうか。残念ながら未だ微々たるものでしかないA。私が研究意欲をかきたてるめがその方向にある限りにおいて、徴々たるものであってもその一部署で従事したい。
 一般的に言えば、自己の主張を具体的な形で表明するには、いずれの地域どの時代を問わないはずである。日本・中国・アフリカ、また古代・中世・現代何れでもそれは実行できよう。私はそれをモンゴルにおいて追求してみたい。
 モンゴルでそのような視角から研究する場合に、モンゴルの代表的歴史家の一人、Sh.Natsagdorjによって定着された「牧民運動」史研究があるB。私もこの牧民運動という分野から右の課題を追求することにしたい。
ただNatsagdorjにあっては、一九二一年のモンゴル人民革命を担ったモンゴル人民の闘争を、それに先だつ清期支配下のモンゴルにその始源をおき、モンゴル人民革命にむけるモンゴル人民の役割を明らかにするという問題意識があった。それは大きな成果としてわれわれのものとなっている。しかし、歴史は人民によって作られること、さらに、人民が何を希求し何を目標としていたかという面での追求はまだ不十分なものとして残されている。言い換えれば、モンゴル人民の牧民運動をモンゴル史の中で一貫して位置づけるという作業が未だなされていないのである。そこで私は、Natsagdorjが清朝支配期のモンゴル人民(=牧民)の「封建領主や清朝に抵抗する運動」として把握した視点に学びつつ、更に複座を広げ、階級社会におかるモンゴル人民の自己実現過程として捉え、その一定の成果が清朝支配期のモンゴルにおいて実現した、という方向でモンゴル人民の歴史創造過程を明らかにしたい。
 このように規定されたモンゴル人民の牧民運動は、確立期・発展期・止揚期の三段階に分けて考ぇるのがよいと思う。本稿は、そのうちの前期に限定される。
 従ってまずモンゴル人民(=牧民)の歴史創造過程を明らかにするために人民の闘争そのものの分析視角を設定し、次に前期牧民運動の画期となった清朝支配確立期における牧民の動きを探り、更に、牧民にとって清朝支配はどのような意味をもつかを明らかにして、最後に、牧民による訴訟事件の中でそれがどのようにあらわれているかを追求する、という順序で進みたい。

一、牧民運動史研究の分析現角

 牧民運動を三段階に分けると述べたが、その理由をも含めて牧民運動の分析視角を設定することが、、最初の手続として必要となってくる。
 猪突であるが、ここで私は、「小経営生産様式」について論じたい。「小経営生産様式」範疇導入の意義を論じた栗原百寿氏はいう。
  原始共同体的、奴隷的、封建的、資本主義的お
  よび社会主義的な生産諸様式を統一的に把握す
  るとは、それらを発生と成長と衰滅の過程にお
  いて歴史的に考察して、それらの歴史的に主要
  な生産諸様式がそれぞれ移行(過渡)過程ない
  し転化過程をつうじて相互に接続しあって展関
  してきている次第を明らかにすることである。
  このような生産諸様式の統一的把握のためには、
  歴史的な移行過程の解明となるものである。と
  こころで、この原始共同体的生産様式を起点とす
  る生産諸様式の移行的発展の過程は、小経営的
  生産様式・・・・に視点をすえ、それを媒介とする
  ことによって、最もよく把握されうるものであ
  る。この小経営的生産様式は歴史上の主要な生
  産様式には通常かぞえられていない。しかし、
  この生産様式は、古典古代の初期および近代の
  初頭において最も正常な形をとって現われてい
  るばかりでなく、広い意味においては、大規模
  な社会的生産としての資本主義的生産様式にた
  いする個別的な小規模生産の様態として、資本
  主義的生産に先行する生産諸形態を多かれ少か
  れ一貫する生産様式であるということのできる
  ものであるC。
このように、小経営生産様式は、各段階における主要な生産様式(「原始共同体的、奴隷的、封建的、資本主義的各生産様式」)の過渡期においてその正常な形態をとるものであって、それを媒介としてはじめて各生産様式が正常に移行しうるものである、というのである。こうして、歴史の総過程を究明する分析の武器として、「小経営生産株式」範疇が提起されたのである。
 小経営生産様式概念を歴史分析の武器として更にたちいって理論的解明を加えたのが原秀三郎氏である。氏の論点を要約すれば以下のごとくなろうD。
 まず第一に、一般的性格としては、小経営生産様式というところの「生産様式」とは、通常いわれるところの、「社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する」ところの「物質的生活の生産後式E」のことであり、その「小経営」は、「労働者が自分の生産手段を私有する」か「占有する」かの何れかに基礎づけられ、同時に、その「分散をも内蔵」するため、協業や分業のような社会的生産諸力の発展を排除する故に、生産手段の集中、協業としての大経営にとって代わられること。第ニに、その「大経営」が歴史の各段階での支配的・規定的な「物質生活の生産様式」たるアジア的・古代的・封建的・近代ブルジョア的「大経営生産様式」のことであるのに対し、小経営生産様式とは、従属的・非規定的な生産様式であること。第三に、各段階の規定的生産様式の過渡期=解体期に、その正常な形態をとり、経済的基礎となること、即ち、(ア)本源的所有(アシア的)の段階にあっては、「大経営生産様式」たる自然生的共同団体に基礎づけられた共同労働(=アジア的生産様式)に対立して、その解体期にあらわれるギリシャ・ローマ的、ゲルマン的形態における自由な分割地所有であり、(イ)第二次的所有(古代的、封建的)の段階にあっては、「大経営生産様式」たる自然生的共同団体を前提とする集団所有な駆逐し労働する諸個人を生産の目然生的諸条件の一部として私的所有するところの奴隷制・農奴制に対して、その解体期にあらわれる独立自営農民層の分割地所有であること、以上である。そして、こうして「小経営生産様式」概念を措定しておいてから、原氏はいう、
  かつて集団ヘの帰属を通じて所有を実現してい
  た労働する諸個人が、奴隷・農奴等として所有
  を奪われ、私的所有の対象的存在におとしめら
  れたその状態から脱出し、「自分のものとして
  の所有」を獲得ないし実現する闘争、すなわち、
  労働する諸個人の自然的諸条件の一部として所
  有するもの(奴隷主・領主等)と、所有の対象
  的存在からの脱出、つまり私的所有の獲得ない
  し実現を志向するもの(奴隷・農奴等)との階
  級闘争であるF。
つまり、小経営生産様式は、本源的共同社会における人格約奴隷状態や、第ニ沈的所有社会における奴隷制・農奴制的隷属関係から自己を解放し、人格的自立性、自由な個性を確立するための通過点であった、というふうに、栗原氏のことぱを、原氏流に翻訳されたのである。
 私は、原氏が栗原氏の論点を補強して措定した「小経営生産様式」の有効性を疑うものではないし、同時に、「階級闘争」の担い手としての直接生産者=労働主体のめざしていたものは何か、いう視点にたつならば、原氏の論点に賛意をおしまざるものではない。また、原氏の「小経営生産様式」の理論的解明には大筋において異論はないG。しかし、こうして措定された小経営生産様式概念は、不明確なところがあり、人民が何を希望し何を目的として生きていたか、という点にあいまいさを残している。以下、それに関して検討を加え、小経営生産様式」範疇の「人民化」の試みとしたい。
 まず、第一点で問題となるのは、原氏は小経営生産様式を、カテゴリーとしては、生産手段の「私有」ないし、「占有」である、というふうに規定されたが、そのように広い意味に解すると、少なからず問題がでてくる。「私有」については、原氏も引用するように、マルクスは次のように言ってている。
  社会的、集団的所有の対立物としての私有は、
  ただ労動手段と労動の外約条件とが私人のもの
  である場合にのみ存立する。しかし、この私人
  が労働者であるか非労働者であるかによって、
  私有もまた性格の違うものになる。一見して私
  有が示している無限の色合いは、ただこの両極
  端のあいだにあるいろいろな中間状態を反映し
  ているだけである。
  労働者が自分自身の生産手段を私有している
  ことは小経営の基礎であり、小経営は、社会的
  生産と労働者の自由な個性との発展のために必
  要な一つの条件であるH。
ここでは、(a)私有が小経営の基礎であること、(b)私有も「労働者であるか非労働者であるかによって」「無限の色合い」があること、について述べられている。一方、「占有」については、マルクスは、別の個所で次のように言う、
  直接労動者がまだ彼自身の生活手段の生産に必
  要な生産手段や労働条件の「占有者」であると
  いう形態では、どの形態でも所有関係は同時に
  直接的支配・隷属関係として現bれざるをえず、
  したがって直接生産者は不自由人として現bれ
  ざるをえないということである。不自由人とい
  っても、それは夫役を伴う農奴制から単なる頁
  納義務に至るまでだんだん弱まるものでありう
  る。この場合には直接生産者は、前提によれば、
  彼自身の生産手段を占有しており、自分の労動
  の実現と自身の生活手段の生産とのために必要
  な対象的労働条件を占有しているI。
ここでは、(c)占有は、直接的支配・隷属関係にある直接生産者によって行なわれるものであることが述べられている。ところで、ここでいう「直接的支配・隷属関係」における占有とは、主として「夫役を伴う農奴制」における占有をさしているのであるが、又一方で、「大規模な協業の応用は吉代世界や中世や近代植民地にもまばらに現われているがこれは直授的な支配隷属関係に、たいていは奴隷制に、もとづいているJ」という言い方からもうかがえるとおり、直接的支配隷属関係は奴隷制にも存在する。では、奴隷制のもとでは、占有はどのような形態をとるか。工ンゲルスは、プロレタリアと農奴および奴隷との達いを説明した個所で、「奴隷は一所有者の財産」であり「一個のもの」とみなされる、といっているが(12)、このように奴隷は生産手段そのものとして自己自身を「占有」している。さらに、「直接生産者」とは何か。「直接生産者」あるいは「労動主体」は、「はたらくもの」であることは自明であるが、「はたらくもの」は歴史的にはどのように存在していたか。エンゲルスは産業革命のまえにどのようなはたらくものがいたかと問われたのに対し、
  古代には、はたらくものは所有者の奴隷であっ
  た。それは、多くの後進国で、またァメリカ合
  衆国の東部でさえ、いまだにそうである。中世
  には、はたらくものは土地所有貴族の農奴であ
  った。今日でもまだ、ハンガリア、ポーランド、
  ロシアではそうである。・・・・・・そして、マニファ
  クチュアが発展するにつれてマニファクチュア
  労働者もだんだんあらわれてきたが、これはす
  でに資本家にやとわれていた(13)と答え、奴隷や農奴やプロレタリアであると明解に述べた。つまり、直接生産者とは、奴隷・農奴・プロレタリアである。だから、直接生産者たる奴隷・農奴(ここではプロレタリアを一応問題としないでおく。基本的にば同様である。)は、自分自身が生産手段たると、一部を所有しているとをとわず、その「占有」者である、と言いうる。ここで、前の(b)点との関連でいうと、私有が「無限の色合い」をもつこと、それが、労働者・非労動者の別によって性格が異なってくる、ということがいわれていたが、この場合の労働者にとっての私有とは、本質的には、「占有」であることに注意しなければならない。たしかに、私有は小経営の基礎であるが、その私有の「色合い」によって、小経営は「占有」によって成立つ、いうことも、同様に可能なのである。従って、小経営生産様式を原氏のように広い意味に解する場合に、直接生産者=労働主体にとっての私有とは、占有を意味するものだということに注意する必要がある。
 次に第ニ点に移る。ここで問題となるのは、原氏が小経営生産様式を、奴隷制・農奴制などとぃった大経営生産様式に対して、「従属的、非規定的」なものだ、とされた点である。従属的・非規定的というのは、たとえば、農奴制においては、規定的生産様式たる農奴制生産様式に対して、小経営は、それに対する規定性をもちえないで、農奴制社会構成の中で、孤立し、農奴主=封建領主の経営と相並んで、しかも、それに打ち克ちえない一個の経営形態であろう。それが歴史具体的にはどのようなものをさすのだろうか。封建社会構成においてそのような経営が十分成立ちえたのだろぅか。むしろ、マルクスが、「小農民経営〔=小経営〕と独立手工業経営とは、どちらも・・・・・・封建的生産様式の基提(14)」をなす、というように、農奴制においては、直接生産者は、生産手段を占有することによって、農奴として、原氏のいう小経営の獲得=「私的所有の獲得ないし実現を志向する」「階級闘争」(前掲引用文参照)を行っでいるのである。だから、マルクスが、  
  たしかに、この生産様式は、奴隷制や農奴制や
  その他の隷属的諸関係の内部でも存在する(16)。
というように、従属的・非規定的」なのではなくて、「内部的」なのである。ただ原氏の念頭にあるのは、このようなものとしての小経営ではなくて、このような奴隷や農奴という労働主体の上にそびえる奴隷制・農奴制各生産様式の外都にある、小経営生産様式のことであろうが、もしそうであったにしろ、そのようなものが、「階級闘争」を闘う主体とたりえたかどうか、そのように措定された小経営生産様式は、奴隷や農奴にとって何の意昧もないものであろう。
 第三点に移って、ここでは、原氏は、小経営生産様式は、各段階の主要なる生産様式の解体期、即ち、原始共同社社会=本源的所有社会および奴隷制・農奴制社会=第二次的所有社会の解体期に正常な形態をとってあらわれ、その経済的基礎となる、といわれるが、このこと自体は何の問題もない。たしかに、そこでの小経営は、
  それら〔=小経営生産様式〕は、原始的東洋的
  共存性が崩壊したあとで奴隷制が本式に生産を
  支配するようになるまでは、最盛期の古典的共
  同体の経済的基礎をなしている(16)。
また、       
  このような、自営農民の自由な分割地所有とい
  う形態は、支配的な正常な形態としては、一方
  では古典的古代の最良の時代の社会の経済的基
  礎をなしており、他方では、近代の諸国民のも
  とで、封建的土地所有の解体から生まれくる諸
  形態の一つとして見いだされる。イギリスのヨ
  ーマンリ、スウェーデンの農民身分、フランス
  や西ドイツの農民がそれである(17)。
といわれることでわかるとおり、「分割地所有」こそがそれである。これらのことにも私は疑問をさしはさむつもりはない。だが、ただ一つ、検討すべきことがある。
郎ち、この分割地所有をになっなものは誰であり、第一点で問題にした「私有」であるか「占有」であるか、という点のみである。例を、本源的社会の解体期にとってみよう。ここでの小経営生産様式の正常な形態たる分割地所有は本源的共同体の土地所有形態にどのような変化をもたらしたか。マルクスは本源的所有のゲルマン的形態たるロシアの農業共同体において内部にはらむ土地共有とその対立物である私的占有とがこの農業共同体にどのような変化をもたらしたかをのべ、
  共同体は、自分自身の体内に、その有害な諸要
  素をもっている。土地の私有が、菜園つきの家
  というふうな形で、共同体のなかにしのびこん
  でいる。そしてこの菜園というものが、共有地
  にたいする攻撃を準備する城塞に変形しうる。
  それはそれでよろしい。だが、肝要なのは、私
  的占有の源泉としての分割労動である。これは
  動産、たとえば、家畜や・貸幣、ときには奴隷さ
  えもの−蓄積をおこさせる。詭計と偶然にとっ
  て絶好の機会となる個人的交際の対象であり、
  共同体の統制することのできない動産が、ます
  ます農村経済全体のうえにのしかかってくるで
  あろう。これこそ経済上・社会上の原始約平等
  の破壊者である。これは共同体内都に利害と欲
  情の衝突さまきおこす異分子をひき入れる。こ
  の衝突はまず耕地の共有を、次には森林、牧地、
  荒蕪地等の共有を傷つけるのであるが、これら
  のものは、いったん私有財産の共同体付属物に
  かわると、いつかは私有になるのである(18)。
というふうに、私的占有=分割地所有が共同所有の破壊者に転化し、奴隷や・農奴などの蓄積を伴う私有にかわるとしている。又、別の個所で、マルクスは、土地共有から出た剰余生産物が国家の役人や私人によって「横領され」「元来は自由だった農民的工地所有者たちは」「夫役義務者または生産者地代支払義務者に転化させられ(19)」る、というふうに、このような分割地所有=小経営生産様式が、「自由な農民的土地所有者」たちを農奴として従属させる(以下に続く文章で、「本来の奴隷経営・・・・・・にはここでこれ以上に詳しく立ち入る必要はない(20)」といっていることからわかるとおり、奴隷として隷属させることは自明として前提とされている)事実を指摘している。このように小経営生産様式が私的占有から私有に移行していく過程で、同時並行的に支記階扱の大経営生産様式(奴隷制・農奴制各生産様式)ヘの転化がみられることから、小経営生産様式が支配の槓杆としてのみ存在するのであろうか。そうではない。確かに私的占有は分割地所有の源泉ではある。だが、元来、土地の占有は、第一点のところで述べたとおり、人民の土地所有形態=小経営であったし、
  〔農業共同体では〕耕地は依然として共同体的
  所有ではあるが、それは農業共同体の構成員の
  あいだで定期的に割替えされ、そうすることに
  よって、おのおのの耕作者は自分にあてがわれ
  た耕地を彼自身で耕作し、その成果を個人的に
  占有するようになっているのである(21)。
というように、共同体成員にとって固有の土地所有形態であった。その共同体各成員の生産手段の「個人的な占有」が、私的占有たち分割地所有に駆逐されさん奪され横領され、奴隷制的・農奴制的大土地私有に転化するのである。このように、奴隷制・農奴制生産様式への転化をはらむ分割地所有=小経営生産様式的私有と到個に、直接生産者の占有が、この各生産様式ヘの過渡期に、あるいは、同じ意味であるが、本源的共同体社会の解体期に、同時に、かつ広範に存在していたのだということに注意しなければならない。このような事態があって始めて、このいわば人民の占有といずれはその支配に転化する契機をはらむ私有とが併存し、後者が前者を支配することによって、原始共同体を破壊することをのべた次の文章が生きてくるのである。
  小さな土地所有は半ば社会の外にある末開人の
  階級をつくりだして、この階級は原始的な社会
  形態のあらゆる野蛮と文明諸国のあらゆる苦悩
  や悲惨とを結びつけているとすれば、大きな土
  地所有は、労働力を、その自然発生的なエネル
  ギーの逃げ場でありそれを諸国民の生命力の更
  新のための予備源として貯えておく最後の領主
  である農村そのもののなかで破壊するのである
  (22)。
このことは、農奴制生産様式の解体期を例にとってみれば、更に一層明瞭になる。農奴制においては、直接生産者=人民の生産手段の「占有」がその基礎をなしていることは、前に述べたが、この農奴制生産様式の解体期は生まれてくる、イギリスのヨーマンリ、スウェーデンの農民身分、フランスや西ドイツの農民」即ち、独立目営農民は、どこから生まれてきたのか。
  イギリスでは農奴制は一四世紀の終りごろには
  事実上なくなっていた。当時は、そして一五世
  紀にはさらにいっそう、人口の非常な多数が自
  由な自営農民から成っていた。たとえ波らの所
  有権がどんなに封建的な看板によって隠されて
  いたにしても。いくらか大きな領主所有地では、
  以前はそれ自身農奴だった土地管理人は自由な
  借地農業者にょって駆逐されていた(23)。
といわれるように、独立白営農民は、農奴制的所有の系譜をひくものであリ、「封建的土地所有の第体(24)」から生じたところの土地私有である。一方、この土地私有、分割地所有と併存して、農奴制のもとで、土地の占有を基礎とする直接生産者=人民(農奴)が自己の経営を繁栄させることによって、土地から解放された、労働者=プロレタリアとして、生産手段=労働力商品の「占有者」として、私的所有の源泉たるマニファクチュア(25)や産業資本家のもとに隷属する人々の存在にも注意しなければならない
  直接生産者、労働者は、彼が土地に縛りつけら
  れていて他人の農奴または隷農になっているこ
  とをやめてから、はじめて自分の一身を自由に
  処分することができるようになった。自分の商
  品の市場が見つかればどこヘでもそれをもって
  行くという労働力の自由な売り手になるために
  は、彼はさらに同職組合の支配、すなわもその
  徒弟、職人規制やじゃまになる労働規定からも
  解放されていなければならなかった。こうして
  生産者たちを賃金労働者に転化させる歴史的運
  動は、一面では農奴的隷属や同職組合強制から
  の生産者の解放として現われる。そして、われ
  われのブルジョア歴史家たちにとっては、ただ
  この面だけが存在する。しかし、他面では、こ
  の新たに解放された人々は、彼らからすべての
  生産手段が導い取られ、古い封建的な諸制度に
  よって与えられていた彼らの生存の保証がこと
  ごとく奪い取られてしまってから、はじめて自
  分自身の売り手になる。そしてこのような彼ら
  の収奪の歴史は、血に染まり火と燃える文字で
  人類の年代記に書きこまれているのである(26)。
このように、小経営の正常な形態たる独立自営農民の「私有」と同時に、土地を奪われ、自己を「占有」するプロレタリアも視野に入れて考える必要がおる。
 以上、三点にわたって、原氏の小経営生産様式概念の検討を試みたが、ここで、直接生産者=人民(労働主体)の小経営生産様式としての生産手段の占有形態が、その対極に、私有では決してなくて、どのようなものが存定するのかを次にみてみよう。本源的共同体社会においては、共同体成員の土地共有、あるいは生産キ段の共同体的所有がみられた。即ち、
  人類の文化の発端で、狩猟氏族のあいだで、ま
  たおそらくインドの共同体の農業で、支配的に
  行なわれているのがみられるような労働通程で
  の協業は、一面では生産条件の共有にもとづい
  ており、他面では個々の蜜蜂が巣から離れてい
  ないように個々の個人が種族や共同体の臍帯か
  らまだ離れていないことにもとづいている(27)。
というように、生産条件の共有が前提されていた。次に、資本主義から共産主義への移行ではどうか。封建的土地所有め解体から生まれた分割地所有=私有は、その「分散性」の故に、「社会的E産諸力の自由な発展を排除」して、「社会的に集積された」資本主義的私有をつくり出し、これに伴って、「労働者がプロレタリアに転化」し、その「労働条件」の「資本」への転化、ついで「労働の社会化」即ち、「生産手段の社会的に利用される生産手段すなわち共同的E産手段ヘの転化(28)」が行われ、以下の事態が生起する。
  資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取
  得様式は、したがってまた資本主義的私有も、
  自分の労働になとづく個人的な私有の第一の否
  定である。しかし、資本主義的生産は、一つの
  自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を
  生みだす。それは否定の否定でおる。この否定
  は、私有を再建しはしないが、しかし、資本主
  義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくり
  だす。すなおち、協業と土地の共同占有と労働
  そのものによって生産される生産手段の共同占
  有とを基礎とする個人的所有をつくりだすので
  ある(29)。
つまり、労働条件の社会化によって、生産手段の「共同占有」による「個人的所有」=共産主義社会が生まれるのである。このようにして、人民による生産手段の占有の対極に位置する「共同占有」こそが、階級社会において、人民の獲得する目標として存在する、ということができるのである。
 以上を要約すれば次のことくなるであるう。小経営生産様式には二つのカテゴリーを含んでいる。主要なる生産様式にいずれは転化する生産手段の「私有」を基礎とするものと、買い大気においてはこのような小経営と並んで存在するが遂にはそれらの「内部」に組み込まれていく「直接生産者」の「占有」とがそれである。特に、後者こそ真の意味の小経営生産様式であって、その「占有」の対極にある「共同占有」を目指して、その獲得を志向することこそ、人民闘争なのであって、支配階級によってその対象的地位におとしられた人民の階級社会での階級闘争であり、奴隷→農奴→プロレタリアという形態転換を行って(30)、本源的原始共同体社会の否定の否定たる共産主義社会において、その結実をみることになり、そこにはじめて、小経営生産様式は止揚されるのである。
 こうして、「人民が歴史をつくる」というテーゼにとっての、即ち、人民闘争史にとっての「分析の武器」=分析視角を設定することができた。これをモンゴルに適用すればどうなるか。
 モンゴル史に於て、小貫雅男氏によって提起されているように、本源的所有のアジア的形態を始源とするチンギス汗帝国=国家的奴隷制→清朝支配期のモンプル=国家的封建制という見方がある(31)。そして、このモンゴル社会の牧民運動がモンゴル草命をささえたというSh.Natsagdorjの研究もある。私は、これらの統一把握のために、モンゴル人民(=牧民)による小経営生産様式の獲得実現のための闘争という視角を設定したい。そして、このそンゴル人民(=牧民)による小経営生産様式を、遊牧を主業とする故に牧民的小経営とよびたい(32)。他の農業国の小農経営と本質約に同一である。この牧民的小経営の確立=モンゴル人民(=牧民)の生産手段の占有の確立こそ農奴制の確立であり、モンゴルにおいては、それが清朝支配下のモンゴルにそれが該当し、牧民運動の前期こそそれである。補足すれば、中期牧民運動はその「発展」期に、後期牧民運動はその「止場」期に該当し、「占有」から「共同占有」を志向するところのモンゴル人民草命を始源としその結実たる現代モンゴルに移行していくこと、これらである(33)。



 (注)

@誤解をおそれず多少ラディカルに表現すれば、私は次のことを念頭においているのである、即ち、今までの歴史認識は、全て支配階級に奉仕するためのものであった。支配階級が、部族連合の首長であろうと、貴族領主、資本家であろうと、歴史は常に彼らのために動き、そして書かれてきた、と。今や歴史が被搾取者階級のものとされねばならない。日本天皇制が、その数多の断絶にもかかbらず、支配原理の象徴として、それに連なる歴史認識を再生産してきたといわれる時に、同時に、被搾取者階級は歴史的系譜における断絶にもかかbらず、一つの統一体としての自己主張を行っても不当なことは全くない。六〇年代において、人民闘争史が定立された背景もそこにあったと私は理解している。歴史は人民のものである。
A人民闘争史研究がその責務を遂行し、一定の成果をあげたけれども、「人民が何を思い、何をめざして生きてきたか」という観点に基報をすえて歴史を述べることが余りにも少なかったように思う。ただ、闘争の高揚とか、革命的行動の広範化とか、各歴史段階における生産関係の矛盾とかといった面に目をうばわれていたと言える。その意味で、私は、宮原武夫氏の「律令制下の農民闘争」(『講座日本史』I所収、東大出版会、一九七○年)、「日本古代の人民闘争・勧農政策・宗教イデオロギー」(七一年歴研大会報告)における「生産闘争」概念(=人民がいかに生産力を解放し、生産力の発展をうながしたか)を高く評価したい。
BSh. Natsagdorjの研究概要は、D. Gongor;〓.一〓z−。〓〓ER〓bnEE4E〓〓E口〓E。四EE一g5。2o〓E、111Hニxx  。〓kt〓a 〓k〓かxn。〓4E〓一一〓田.参照
C栗原百寿『農業問題入門』青木文庫、P52
D原秀三郎「階級社会形成についての理論的諸問題」『歴史評論』1969・11、231号、P35〜40。
Eマルクス『経済学批判』序言。
F原前掲論文、P32。
G戸田芳美、河音能平両氏が「小経営生産様式」概念を「分析の武器」として、前資本主義社会を解明しようとされたこと自体、私も同感である。
Hマルクス『資本論』第1卷第7篇第24章第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」、国民文庫版(3)P435(以下、1−7−24−7「・・・・・・」(3)P435というふうに略記)
Iマルクス前掲書、3−6−47−2「労働地代」(8)P291。
Jマルクス前掲書、1−411「協業」(2)P187。
(12)エンゲルス「共産主義の原理」、国民文庫『共産党宣言・共産主義の原理』P81。
(13)エンゲルス前掲論文、P80。
(14)マルクス前掲書、1−4−11「協業」(2)P187(原注)24。
(15)マルクス前掲書、1−7−24−7「資本主義的蓄積の歴史的傾向」(3)P435。
(16)マルクス前掲書、1−4−11「協業」(2)P187(原注)24。
(17)マルクス前掲書、3−6−47−5「分益農制と農民的分割地所有」(8)P317。
(18)マルクス前掲書、「ヴェラ・ザスーリッチへの手紙」『資本主義に先行する諸形態』国民文庫、P124〜5。
(19)マルクス前掲書、3−6−47−5「分益農制と農民的分割地所有」(8)P312。
(20)同上。
(21)マルクス前掲書、「ヴェラ・ザスーリッチへの手紙」P100。
(22)マルクス前掲書、3−6−47−5「分益農制と農民的分割地所有」(8)P318。
(23)マルクス前掲書、1−7−24−2「農村住民からの土地の収奪」(3)P362。
(24)マルクス前掲書、3−6−47−5「分益農制と農民的分割地所有」(8)P317。
(25)エンゲルス前掲論文、「共産主義の原理」P89。
(26)マルクス前掲書、1−7−24−1「本源的蓄積の秘密」(3)P360。
(27)マルクス前掲書、1−4−11「協業」(2)P186〜7。
(28)マルクス前掲書、1−7−24−7「資本主義的蓄積の歴史的傾向」(3)P435〜7。
(29)同上、P435。
(30)その具体的諸相については、本稿の範囲を越えるので別の機会に考えたい。
(31)小貫雅男「モンゴル近現代史研究の視角(3)」『歴史評論』1974・11、295号、P81、「モンゴルにおける民族形成の特質」『歴史学研究・1975年度別冊・歴史における民族の形成』P29以下。
(32)「封建制モンゴルにおいて、家畜は生産手段、消費財、労働生産物という複合せる性格を有していた」、BNMAUT U、P163。
(33)牧民通動の理論的展望についてもう少し補足すれば、氏族共同体を纂奪したチンギスによってうちたてられた国家的奴隷制制社会において、牧民運動は、生産手段の共有から占有ヘの闘争を開始し、清朝支配期における国家的(集権的)封建制によって、その確立をみ、清朝封建制国家の官吏と化したモソゴル・ノヨンの反 抗が、清代中期(一九C)に起こり、これに対する牧民の闘いがあって(展開期)、活仏政府による封建再編(封建反動)、帝国主義状況の中から、小経営生産様式の止揚(土地の占有から共同占有へ)の胎動があり(例えば、アヨーシによるツェツェク・ノールでの共同遊牧)、現代モンゴルへとつながるということになろう。

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