十二月も下旬の深夜、空座町にある黒崎医院の一室で、黒崎一護は学生服のまま、膝に木
刀を挟んだ姿勢で椅子に腰掛け、病室のベットの上で静かな寝息をたてている祖父を見つめて
いた。
七十代半ばの祖父は髪も真っ白になり、病に蝕まれた身体は痩せ細り、今にも命の火を消し
そうに見えるのは素人目にも解るほどだった。
町医者でしかない一護の父が、もっと最新の設備が整った病院に祖父を移そうして再三再四
提言したが、祖父は笑って首を振った。
『俺は自分の精一杯を生きた。だから死ぬのは怖くないのさ。それに約束もあることだしな・・・』
延命治療を拒み、大病院に移ることも無く、生まれ育った家で一生を終えようという潔さは、黒
崎一護が自分の両親よりも祖父を敬愛する理由の一つに挙げられるだろう。だが当然、祖父を失
いたくないという強い思いも確かにある。
「・・・じいちゃん、死ぬなよ・・・」
ポツリと呟く。
あと数日で新しい年を迎えようという時に冥界に旅立とうとしている祖父に、愛惜の念が込み上
げてくる。
涙が浮かびそうになった一護は、ずっと見つめている祖父の唇が微かに動いたのを目にして、
慌てて耳を近づけた。その耳元で祖父の擦れた声が呟く。
『――――とうしろう―――・・・と』
その途端に一護の瞳に怒気が揺らめく。
その名は、ただ一度だけ祖父から聞かせられた名だったが、一護がこの世で一番嫌いな名でも
あった。
一年程前、思春期を向かえた一護が、『俺、好きな子が出来た』と祖父にだけこっそりと告げた
時『良かったな、一護。お前のその気持ちと、好きになったその子の両方を大事にしろよ。・・・お
前の初恋が叶うと良いな』
そう云って本当に嬉しそうに微笑んでくれて、とても暖かい気持ちになったものだった。
『じいちゃんの初恋は、ばあちゃんなのか?』と一護が尋ねれば、祖父は少し照れたように、
『・・・それが違うんだ。・・・誰にも内緒だぞ』と言い置き、自らの初恋の話をしてくれた。
数年前に他界した祖母とは、見ているこちらが幸せな気分になれる程に仲睦まじく、その祖父
が想いを寄せた相手が他にいた事は少し意外だったが、もっと驚いたのは、祖父の好きになった
相手は人ではなく、魂のバランサーである「死神」だというのだ。
だが、祖父の高い霊力を受け継ぎ、人には見えぬモノを見る一護は直ぐに納得した。問題だっ
たのは、その死神は小さな男の子の姿をしていたという事だ。
『―――男なのに、じいちゃんはそいつのこと好きになったのか?』
不思議に思って問えば、祖父は苦笑してこう応えた。
『・・・恋心なんてもんは、自分自身でさえどうすることも出来ないもんなのさ。相手が同じ男だから
とか、歳がどうだとか、立場や人目なんてどうでも良くなっちまうものなんだな。例え相手に好きな
奴がいても、自分の方を見てくれなくても、想うことはやめられない。―――俺は、あいつの――冬
獅郎の大きな碧の瞳から流れる涙を見た時に、恋に落ちたんだ・・・』
その死神の名は「日番谷冬獅郎」・・・祖父がまだ血気盛んな若者だった時、想いを寄せた相手
――だが、祖父が己の全てを掌の上に乗せて差し出したというのに、相手はそれを受け取ろうと
はしなかったという。
『じいちゃんをフルなんて、そいつバカだ!』
憤りを感じて吐き捨てた一護に、祖父は優しい瞳でゆるく首を振った。
『・・・あいつには、冬獅郎には好きな相手がいたんだ。・・・事情があって引き裂かれちまったけど
それでも冬獅郎は異界に落ちた自分の恋人を追いかけて行って、連れ戻して来たんだ。――そ
の時に思ったんだ。誰もこの二人を引き裂けないんだって・・・。それで失恋しちまった訳だが、そ
の代わり、あいつに約束を一つせがんだんだ』
『約束?』
『あぁ。―――――遠い約束をな・・・』
澄んだ瞳で空を見つめた祖父の寂しげな表情を思い出し、一護は木刀を握る手にグッと力を込
める。
( こんな良いじいちゃんに辛い想いをさせたんだ。絶対に許すものか!)
祖父は死神達の住む世界を離れる際、その少年の死神に一つの約束をさせたという。
『俺が現世で自分の天寿をまっとうしたら、その時は冬獅郎、お前が俺を迎えに来てくれよ』
相手の負担にならないようにと、出来るだけ明るい調子で振ったという祖父の頼みごとに、死神
の組織の中でも高位に属するというそいつは確かに肯いたのだという。
その約束が確かなら、そいつはもうすぐここに現れる。
それは祖父の死をも意味していたが、人とは異なる超常の力を持つ一護にはそれが解った。お
そらく今眠りについている祖父にも解っているのだろう。
だが、徒で祖父をその死神に引き渡すのはあまりにも癪な話だと感じた一護は、先ほどからずっ
と木刀を携えてその死神の来訪に備えていた。
幼いときから剣道を習い、数ヶ月前のインターハイでは惜しくも準優勝に終わった腕前だ。たと
え追い返す事までは出来ないまでも一撃くらいはくれてやる気でいる。
と、何かの気配に視線を転じれば、そこには大きな黒い揚羽蝶が飛んでいた。
「・・・冬に蝶が?・・・でも、どっから入って来たんだ?」
暖房の為にしっかりと閉めた筈のドアを振り返った一護の目の前に、それは現れた。
スッ――――っと音も無く壁を通り抜け、一人の少年が姿を見せる。
漆黒の振袖の上に純白の羽織を纏い、背に長刀を負っている。年頃は一護と同じ十五、六歳と
いうところだろうか。腰まで届く白銀の長い髪が、頭の高い位置で一つに結い上げられている。透
明感のある肌理の細かい白磁の肌に、形の良い、花の様な色の唇。そして一護に向き直り、ぴた
りと視線を合わせてきた瞳は魂が魅入られそうなくらい深い碧だ。
まるで冴え凍る六花の結晶が人の形を取ったかの様な―――――類まれな美貌の少年。
「・・・・・・・っ・・・」
突然現れた少年の美しさに驚き圧倒された一護は咄嗟に声すら出なかったが、日頃培った胆
力で己を鼓舞し、バッといきよい良く椅子から立ち上がると少年の前に立ち塞がった。
「・・・あんた、死神か? ・・・じいちゃんを連れに来たのか?」
「あぁ、そうだ」
「じいちゃんを迎えにくるのは、日番谷冬獅郎って死神の筈だぜ」
「俺が日番谷だ」
自分と同い年のような見かけのくせに、落ち着き払った相手の態度にむかついた一護は初めて
声を荒げた。
「嘘つくなよ! 俺はじいちゃんからちゃんと聞いてるんだからな! ・・・日番谷冬獅郎は十歳位
の子供で、護廷隊ってとこの十番隊長だって! ―――あんたはそんなガキには見えないし、第
一あんたの着てる羽織の番号は違っているじゃねぇか!」
確かに一護の目にちらりと映った少年が纏っている羽織の背に描かれている番号は『十』ではな
く、『一』だった。
「本物の日番谷を連れて来いよ! 代理なんかで済まそうってんなら、じいちゃんは絶対に渡さな
いからな!」
気炎を吐く一護に対して少年が何かを云い掛けた、その時、
「・・・・・冬獅郎。・・・冬獅郎なのか?」
何時の間にベットから起き上がったのか、一護の祖父が喜びに顔を輝かせ、こちらを見つめてい
た。
「――! じいちゃん!」
重病で、一人では到底起き上がれない筈の祖父の、久方ぶりの笑顔を見て驚いた一護は、次
の瞬間に悲鳴に近い声を上げていた。
ベットから起き上がり、こちらへ歩いて来る祖父の後ろで、やはり祖父はベットに横たわり、微妙
だにしていないのだ。
――――幽体離脱!
「じいちゃん!」
一護の瞳に涙が溢れる。――今、この瞬間、自分を慈しんでくれた祖父の寿命が潰えた事を悟
ったのだ。
「泣くなよ、一護・・・」
如何にも困った様な声と同時に、自分の頭の上にポンと置かれた祖父の手に一護はしがみ付
いた。
本来は生者が死者に触れる事など出来ない筈だが、近しい血縁の、そして強力な霊力を持つ
二人だったからこそなのか分からないが、今の一護には自分の生まれ持った力に感謝するゆとり
などは無い。
「――じいちゃん! ――じいちゃん!」
泣きじゃくる一護の背をあやしながら、もう一人の『黒崎一護』が少年に微笑み掛ける。
「本当に来てくれたんだな。・・・ありがとな、冬獅郎」
「約束だからな」
いかにもそっけなく云う少年の言葉に、ハッとなった一護は祖父に詰め寄った。
「じいちゃん、こいつと一緒に行くのかよ?」
「ああ、そうだ。・・・それが俺の宿命だ。お前はどうか元気でいてくれ、一護。・・・とうさんやかあさ
んにもよろしくな」
「―――っ、そんな簡単に・・・っ!」
「・・・一護というのか?」
声を詰まらせて押し黙った一護を見て少年が問い掛けた。
「ああ、『黒崎一護』、俺と同じ名だ。俺には四人の孫がいるが、唯一こいつだけが俺の霊力を受け
ついだんだ」
「成る程な。萱草色の髪はともかくとして、目付きの悪さと短気までそっくりだな」
「なんだとこの野郎!」
見かけの美麗さを裏切る少年の口の悪さにカッとなり、喰って掛かろうとした孫を一護が慌てて
止める。
「ったく、相変わらずだな冬獅郎。・・・一護、お前も止めとけ。敵う相手じゃないのは解かってるん
だろ?」
「・・・・・ぅ」
苦笑する祖父の言葉通り、少年には一分の隙もない。自分が木刀を振りかざしたところで勝負は
見えている。
だからといって、このままおめおめと大好きな祖父を引き渡してしまいたくはなかった。だから・・・
「―――時間だ。いくぞ黒崎」
「・・・分かった」
黒い揚羽蝶に先導されて壁の向こうに消えようとする少年の背に、一護は思い切り叫んだ。
「待てよ、死神。・・・日番谷冬獅郎!」
呼び止めた相手が振り向くのを待って、気迫を込めて言い放つ。
「じいちゃんに酷いことをしやがったら俺がお前を許さない! 必ずあの世に行った時に仇をとるか
らな。よく覚えてろよ!」
日番谷の後ろで祖父が嘆息しているのが判ったが、一護とすればどうしてもこれくらいは云って
やりたかった。そうでなければ祖父の死を諦め切れない気がした。そして何がしかの反撃を予想し
て身構えた一護に対し、意外にも日番谷冬獅郎はゆっくりと頷いた。
「そうだな、覚えておこう」
「・・・・・!」
ふっと和らいだ微笑を向けられて、一護の顔がみるみる赤らむ。
「案ずるな。――黒崎一護の魂魄の安らぎは、護廷十三隊総隊長の日番谷冬獅郎が確かに引き
受けた」
その自信溢れる物言いに驚いて視線を転じれば、祖父は一護に向けて親指を突き出し、片目を
閉じて見せた。
この時になって初めて、一護は祖父と日番谷の間に言葉では言い表せないような魂の繋がりを
感じ、再び涙が込み上げてきた。
「・・・俺を連れて行って――いや、導いてくれ、冬獅郎」
「あぁ・・・」
祖父の言葉に日番谷が頷く。
「じゃな、暫らくのさよならだ。一護、―――自分の精一杯を生きるんだぞ!」
そう云い置いて、壁を通り抜けて消え行く日番谷の後に続こうとした祖父に、溢れ出る涙のまま、
一護はありったけの想いで叫んだ。
「じいちゃんも頑張れよ!」
振り返った祖父の笑顔は、一護が幼い時から見慣れた、まさしく太陽のような笑顔だった。
そしてその笑顔のまま、祖父は一護の前から姿を消したのだった。
白い光の中を黒い揚羽蝶に導かれて、日番谷と一護は尸魂界へと通じる道を並んで歩を進め
ていた。
「・・・冬獅郎」
「なんだ?」
「お前、いつ総隊長になったんだ? 凄ぇじゃねぇか!」
我がことの様に顔を綻ばせる一護に、日番谷は眉間に皺を寄せてぶっきらぼうに応える。
「別に凄かねぇよ。・・・山本のじいさんが引退するとか言い出しやがって、その後釜を皆が寄って
たかって俺に押し付けやがったんだ。朽木辺りに振りゃぁ良いものを・・・まぁ、ペナルティーってや
つだな」
「それでもお前になら勤まるって認められたからだろう」
「・・・ふん」
六十年前となんら変わらない日番谷の態度が、一護には堪らなく嬉しい。その浮かれた気持ち
のまま、自分の感想を素直に口に出す。
「冬獅郎・・・お前、綺麗だな!」
「・・・・・阿呆」
「いや、マジで見惚れちまうぜ。勿論、昔も綺麗で可愛かったけど、なんか今は匂いたつ色っぽさ
がプラスされたっつーかなんつーか・・・上手く言えねぇけど、ちょっと感動しちまった」
「分かったから、もうよせ。・・・馬鹿野郎」
このままほっとけば、話題が自分の苦手な分野に発展すると踏んだ日番谷が手を振って、自分
の外見の話を強制終了させる。
一護としては語り足りない思いだが、その代わり先程から疑問に思っていた事を聞いてみる。
「なぁ、冬獅郎。尸魂界に向かう魂は皆この道を通って行くのか?」
「いや、お前には少し説明したいことがあってな、わざと遠回りをしている」
「説明したい事? なんだよ、それは」
「尸魂界は、お前の過去の働きに対して謝意を示す用意がある」
「・・・え?」
「まず、瀞霊廷に住居を構え、爵位を授与する。そして当然相応の財産も割り当てられることにな
るだろう」
「ちょ、ちょっと待てよ、冬獅郎! それって俺が瀞霊廷の貴族になるってことかよ?」
「そうだ。本来人の魂は流魂街のいずれかに配置されるが、お前は尸魂界の恩人だからな、瀞霊
廷の上層部も特別措置をとる気になったんだろう」
呆気に取られる一護に対して日番谷はあくまでも淡々と説明する。
「・・・・・なぁ、それって反故には出来ないのか? ―――例えば俺が、貴族ではなく、護廷隊の
死神になりたいと云えば許される事なのか?」
「・・・それは勿論お前の自由だが、平穏で安らかな生活が約束されているものをなんでまた」
得心がいかないという表情の日番谷に、一護は真剣そのものの眼差しを向けて云う。
「俺は、お前の側に居たいんだ。そしてお前の役に立ちたい! ・・・だから死神になりたいんだ。
もうずっと前から決めてた! ―――現世で死んで尸魂界に行ったら、死神になろうってな」
「黒崎・・・」
「―――ずっと昔から、俺の胸の奥に焔が灯っているんだ」
目を閉じ、自分の心臓に手を当てて語る一護に日番谷は黙って耳を傾ける。
「成就する見込みの無い想いだからと、何度も忘れようとしたさ。でも、ダメだった。・・・お前と違う
人を好きになって、子供が生まれてその子達を愛し、孫が何人も出来てどんなに可愛いと感じて
いても、それとは別にずっとお前のことを諦め切れないでいた。―――――好きなんだ。愛してる
冬獅郎!」
―――――六十年の時を経ても尚変わらずに燃え続けていた埋み火の恋―――――
「・・・・・黒崎、俺はお前の思いには応えられない」
辛そうに俯く日番谷に、一護はあえて笑顔を見せて云う。
「解かってるさ。お前はあいつが好きなんだって。でもな、昔、俺はお前に云ったよな・・・例えお前
が何者であっても俺はお前の友達だって。――今ははっきりとこう云える・・・俺はお前が誰を想っ
ていても、お前のことが好きだってな!」
一点の曇りもない真摯な一護の眼差しが日番谷を射抜く。
「――――諦め切れない思いなら、後はそれを貫くしかねぇじゃねぇか!」
「・・・・・」
「俺はこんなジジィだけど、死神になれば何がしかの役には立つだろう? 山本のじいさんだって
長い間総隊長を勤めてたんだからな」
俺だってやれば出来るさと、明るく笑う一護に日番谷が一瞬だけ泣き笑いのような貌を見せた。
「・・・・・俺にお前をくれるというのか? 何の見返りも無しに?」
「おうよ! 好きに使ってくれ。俺の身体も心も皆お前にやるよ。俺はお前に全面降伏だ、冬獅郎」
「―――分かった。ではお前は俺が貰い受けるとしよう」
きっぱりと言った日番谷の言葉に一護の胸が喜びに沸き立つ。
「本当か? 受け入れてくれるのか?」
「あぁ。―――俺にも学習能力はあるからな。・・・本当は欲しいくせに、くれるというものを遠慮して
後で後悔するのは藍染で懲りた」
「・・・冬獅郎」
微苦笑を浮かべる日番谷に、光に溢れていた一護の表情が陰る。
「あいつは、――藍染はどうしているんだ?」
「今も虚圏にいる。・・・虚夜宮が崩壊した後もあいつに付き従う破面達と一緒にな。――偶に便り
をくれるよ。・・・惣右介のことはそれで良いと思っている。誰にも時間を戻せない以上、仕方の無
いことだからな」
藍染を下の名前で呼んだ日番谷の、憂いを帯びた貌を見た一護は思わず日番谷の身体をぎゅ
っと抱きしめた。
「お前のせいじゃねぇよ。―――いや、誰のせいでもない。誰も悪くなんかないんだ」
「―――――ああ・・・分かっている」
――――六十年前・・・
『先行するんじゃねぇ! 一人じゃ無理だ! ――冬獅郎!』
尸魂界の存亡を賭け、護廷十三隊と破面が運命の決戦に臨んだあの日。崩壊しつつある虚夜
宮の中、氷の翼を背に負って、唯一人、藍染と市丸が居るであろう虚夜宮の王座を目指して飛ぶ
日番谷の後を、一護は必死に追った。
しかし、多難の末に一護が辿り着いた王座の間はカラで、日番谷や藍染達はおろか誰の気配
すら感じられなかった。
戦い自体は護廷隊が勝利を収めたものの、多数の重軽傷者、そして死者が出る大惨事となり、
戦いの爪跡は誰の心にも深い傷跡を残した。
その中でも、まだ幼い容貌をした十番隊隊長の生死不明の知らせは、護廷隊の隊員達の誰の
心をも重くした。ことに十番隊の隊員達の嘆きはひとしおで、皆、自らの怪我をおして日番谷の捜
索に加わっていたが、十日を過ぎても何の手がかりすら得られなかった。一護も絶望に涙しそうに
なったその時、虚圏の空の一辺から光が差し込み、何事かとそれを仰ぎ見た死神達の目の前に、
光の翼を広げた日番谷が舞い降りてきた。
日番谷はその両手に一つずつ大切そうに美しい輝きを放つ宝珠の様な物を持っていたが、地
に足を着けるや否や、その内の一つに語りかけた。
『どうしても決心は変わらないのか? ・・・・・そうか、分かった』
残念そうに呟き、暫らくの間愛し気に自分に胸にその宝珠を押し当てていた。その後、すっと手
を翳すと、まるでその宝珠自体が自らの意思を持っているかのように日番谷の手を離れ、彼方に向
けて飛翔していく。その後を追って、今まで何処に身を隠していたものか数体の破面達が飛び出
して行ったが、あっけに取られた護廷隊の隊員達は、誰一人としてそれらを追って行って仕留めよ
うとする者は居なかった。
なによりも日番谷が生きて戻ってきたという軌跡の事態に、皆、驚きと喜びに呑まれていたのだ。
『冬獅郎!』
笑顔で駆け寄る一護の後ろを、日番谷の副官である松本乱菊が追う。
『隊長!』
一護が駆けつけた時には既に光の翼を消していた日番谷に思いっきり乱菊が抱き着く。それを
目にした死神達は呪縛を解かれたように我先にと日番谷の周りに集まった。
そんな中、日番谷は乱菊に自分から離れるようにと告げ、喜びの涙を溜めた乱菊がそれに従うと
、大事そうに手に持っていたもう一つの宝珠をそっと空に浮かべた。少しの間を置いてそれは眩い
虹色の輝きを放ち、大きく膨らみ、徐々に形を変えていった。―――人の形へと・・・。
虹色の輝きが消えた後、そこに現れた人物を見た死神達は、殆どの者が反射的に己の斬魄刀
を腰から抜きかけた。
『―――――ギン!』
乱菊の叫びの通り、そこには今回の死神と破面の前面戦争を引き起こした、藍染惣右介の片腕
とも云うべき市丸ギンが、いつもの人をくった笑みを浮かべて立っていた。
ざわめく死神達に対して日番谷は、自分達二人は裁きを受け入れる為に戻って来たと告げたの
だった。
一護はその時の日番谷の瞳が今も忘れられない。
日番谷が姿を消していたのは僅か十日間だったというのに、実際、目の前にいる日番谷の瞳の
奥に潜む深遠は、彼が十日どころか、十年も、いや百年も、あるいは千年も人生の旅路を続けてき
た者のように底が知れない程に澄んでいたからだ。
それからの日番谷と市丸が瀞霊廷に戻ってからの騒動は、尸魂界はもとより霊王までも巻き込
む事態へと発展したが、所詮死神代行でしかない一護はその成り行きをハラハラしながら見守る
しかなかった。
だがもし日番谷になんらかの処罰が科せられ、万が一にも命を失うような判決が出されたなら、そ
の時は朽木ルキアを助けに行った時と同様、何が何でも救出に向かう気でいたのだ。
幸いな事に瀞霊廷の上層部でどういう取り決めがなされたものか、日番谷は敵前逃亡の疑いを
掛けられることなく一切お咎めなしとの通達がなされ、市丸ギンに至っては斬首は免れまいとする
大方の予想を裏切り、半年の営倉入りとの判決が下された。
不思議だったのは、この処罰が軽すぎると異議申し立てをする者が居なかったということだろう。
勿論、裏へ回れば悪し様に言われていたのかもしれないが、逆に表だって目立っていたのは吉
良イズルを初めとする三番隊の隊士達の嘆願運動であった。
『あの方は大罪を犯しました。ですがどうか恩赦を持って一命だけはお助け下さい! 我々三番隊
の者達は誰もが一度は市丸隊長に命を救われている者ばかりなのです!』
涙ながらに土下座し、一番隊の隊舎前から動こうとしない三番隊の二百五十名の隊員達には、
総隊長も流石に困ったという。
そんな紆余曲折を経て、数ヵ月後、ようやく落ち着きを取り戻した瀞霊廷から、皆に送られて一
護は去った。
元々、死神の代行期間は一年間と決められていたものであり、一護としては日番谷に後ろ髪を
引かれる思いだったが、例外は許されなかった。
せめてもと、一つの約束を取り付けるのが精一杯だったのだ。
「俺が現世に戻ってからも色々と大変だったんだろ?」
「・・・まぁな」
大人しく自分の腕の中でじっとしている相手に、一護はたまらない愛しさが湧き上がり、思わず
長い白銀の髪を自分の指で梳き上げたが、日番谷は嫌がる素振りも見せず静かに一護を見てい
る。それを又たまらなく嬉しく感じて言葉を続ける。
「これからは俺がお前を助けてやるからな、冬獅郎。・・・ところで死神になるには、やっぱり霊術院
とかを卒業しなきゃなんないのか? ってか入学試験って結構難しかったりすんのか? 確か恋
次の奴が六年制だとかいってたけど、飛び級も有りだったよな? 俺、なるべく早く卒業出来るよう
に頑張るから待っててくれよな」
「・・・・・・・黒崎」
勢い込んで云った一護の言葉に、日番谷が重い溜息を付く。
「お前、今から霊術院に入学する気でいたのか?」
「そうだけど。・・・・・もしかして年齢制限があるなんて言わないよな? 俺みたいなジジイは入学
出来ないとか?」
いかにも呆れたと言う響きの日番谷の声に怖気づき、一護は一歩、二歩と日番谷から離れ、声も
段々と尻すぼみに小さくなっていく。
「そうじゃねぇよ。・・・そもそもお前は霊術院に入って鍛えるまでもない霊圧を持っている。確かに
鬼道や白打に関しては修練の余地があるが、それは死神の業務をこなしながらでも身につけられ
る」
「・・・・・えっ、それって・・・」
「―――こうゆうことだ」
日番谷が軽く手を振ると一護の身体が一瞬淡い光に包まれ、その粒子が離れた後は今まで着
ていた病衣ではなく、死神だけが袖を通す死覇装を纏っていた。そしてその背には一護の卍解時
の漆黒の斬魄刀『斬月』があった。
しかも・・・
「と、冬獅郎!」
節くれだち、皺の寄っていた筈の自分の手や指が、まるで十代の頃に戻ったかのように瑞々しく
なった事に一護は驚きの声を上げる。慌てて死覇装の袖を捲り上げれば、艶と張りを取り戻した自
分の腕があった。
「お前の様な奴でも見かけを気にするようだからな。俺と初めて出会った頃のお前の身体に霊子を
入れ替えた。・・・まぁ瀞霊廷の貴族になることを振ったんだ、代わりに若さを戻す位は構わないだ
ろう。それに体力面を考えれば、こちらの方が有利ではあるしな」
あくまで淡々としている日番谷に、一護は喜びの余り抱きついた。
「サンキュー! 冬獅郎! 俺、凄ぇ嬉しい!」
「・・・・・ふん」
全身で喜びを表す一護に抱き付かれた日番谷は眉を寄せたものの、それでも悪い気はしない
のか、先程と同様じっと大人しく一護の腕に身を預けている。
「あ〜〜〜もぅ! 凄ぇ嬉しい! 俺、お前にキスしたいくらいだ!」
自分の身体をぎゅうぎゅうと抱きしめてそう言う一護に、日番谷がクスリと笑う。
「・・・いいぜ」
「――え?」
「俺はお前の『魂』を貰ったんだからな。代わりに身体くらいはくれてやるさ」
言うと同時に日番谷は己の柔らかな唇を一護のそれに押し当てた。
いきなりな事態にパニくりそうになった一護だが、至近距離に長いまつげを伴って瞼を閉ざした
白い貌を見た瞬間に腹を決め、ままよとばかりに少し舌先を差し出せば、驚いたことに軽く閉じら
れていた日番谷の唇が薄くゆるんだのだ。それを承諾の証と取り、一護は日番谷の口を開かせて
舌を捻じ込み、暖かな口内を思う様堪能した。
互いの舌を絡めあい、溢れてくるものを啜り合う。
くらくらする程の快感に酔いしれた一護が名残惜しげに舌を解けば、日番谷も頬を僅かに上気さ
せ、その見る者を魅了する美しい碧の瞳を潤ませていた。
「・・・・・冬獅郎、俺、凄く気持ち好かった!」
感激も露な一護に日番谷はフンとばかりにそっぽを向いたが、一護にはそれが日番谷の照れで
あることが見抜けており、先程の「魂を貰った代わりに身体をやる」という擦れた言葉さえ、本当は
自分に向けられた好意の一環であるというのが理解出来ていた。
( 俺、もしかして少しは見込みがあるのかもしれない )
一護の胸に淡い期待の灯が燈った。
「もう少しで瀞霊廷への出口だ、いくぞ黒崎」
「おう!」