暁闇と暁光 九

 目覚めた私が最初に目にしたのは、昼のように明るい月明かりの中で、はらはらと舞い落ちている薄紅

色の桜の花弁だった。

 はっとして寝かされていた床の中から起き上がれば、障子戸を開け放った縁側の廊下に一つの人影が

見える。

「気が付いたか、惣右介」

 縁側に腰掛けていた人物が振り返り、私に微笑みかけたが、私は咄嗟に返事すら出来なかった。

「――――――命様?」

「あぁ。・・・そういえばお前はこの俺の姿を見るのは初めてだったか?」

 天一神は死神としての生を終えた故であろう、死覇装を脱ぎ、替わりに唐風のゆったりとした着衣を

身に着けていた。

 そして私に微笑みかけたその貌は二十歳程の青年のものだった。

 

――――天界一美しい若者・・・。

 

 天上の神々の間でそう呼ばれている天一神の真の姿がそこにあったのだ。

 

「ヤマが手荒く扱って悪かったな。起き上がれるのならここへ来い」

 優美な動きで隣を挿し示され、私は急いで従った。

 

 天一神は依然として、片手に大事そうに市丸の魂魄である宝珠を持っていたが、私が横に並ぶや、そ

れを私に手渡してきた。

「俺は今、市丸に別れを告げていた。惣右介、お前も現世に向かう市丸に言葉を掛けてやってくれ」

「―――!」

 我が耳を疑った! 

 天一神は今なんと云ったのか?

 これからは『桜の宮』で天一神と市丸と一緒に暮らせるものとばかり思っていた私は、自分の耳が信

じられなかった。

「市丸は尸魂界で死神としての生を終え、これより現世への修行に向かう。そして現世での修行を終え

ればまた此処へ戻ってくる。これからはお前と市丸の魂魄の還る場所は尸魂界ではなく、この『桜の宮

』となるんだ」

 震える手で市丸の魂魄を受け取れば、天一神は更に言葉を続けた。

「お前達二人はこの宮でそれぞれ三十年の時を過ごし、また現世へと転生するよう定めてある。お前自

身が尸魂界において人の魂魄の滞在期間を三十年としたのと同じにな」

 天一神の言葉は充分に納得のいくものであったが、私はともかくとして、まさかあれ程愛した市丸を

手放そうとするのには驚きの感を拭えない。

 それに転生してしまえば記憶も消えてしまう。

 人格すら変わってしまう恐れもあるのだ。

 無言でいる私の困惑を見抜いたかのように天一神が静かに声を掛けてきた。

「惣右介、人は『変わる』からこそ『人』なのだ。・・・その思考も振る舞いも変化するからそこ人た

り得るのだ。・・・お前にはそのことがよく判っている筈だ」

「―――はい。命様・・・」

 何処までも公平で平等に、だからこそどれだけ深く、強く、市丸を愛しているかが伝わってくる天一

神の熱い想い。

「お前達が現世でどれだけの寿命を過ごすのかは俺にも判らん。だからお前達は全くの擦れ違いになっ

てしまうかもしれんが、こればかりはどうにもならん。そのことだけはどうか了承して欲しい」

「・・・はい。貴方のお心のままに」

 頭を深く垂れ、私は市丸の魂魄を胸に押し頂いて強く、強く、願った。

 

 どうか、お前を望み、そしてお前を愛してくれる親達の元に生まれるように。

 

 例え一人きりでも構わない、苦楽を共にしてくれる『友』に恵まれるように。

 

 多くの人々と出会い、実り深い充実した日を過ごしてくれるように。

 

 そして最後に、只一日でも良い、何時の日かこの『桜の宮』でお前に遭いたい!・・・と。

 

 深い眠りに就いているらしい市丸はなんの応えを返さなかったが。ほんの一瞬だけ宝珠は月明かりの

下で虹色に輝いたような気がした。

 

 私が天一神にそっと宝珠を返すと、天一神はそれをすっと掌の上に乗せ、天へと翳した。

「・・・市丸、俺とお前の間には想い出以上のものがあると信じている! だからこれはほんの少しの

さよならだ。お前の生に幸多からん事を願う」

 その言葉を最後に宝珠はすぅ・・・っと上昇していき、やがて春の夜空に消えたのだった。

 

 

 

「惣右介、お前はこれよりこの宮で三十年の時を過ごすことになる」

 市丸を万感の思いで見送った私は天一神の言葉に気を引き締めて頷いた。

 そう此処では現世と違い、己の寿命が確定している。

「俺はそんなに頻繁にはこの宮には帰らないだろう。まぁ毎日彼方此方から奉納品が届くことだし、食

い物や日用品には困らない筈だから、お前は今までの堪った疲れを癒し、この宮でまったりと過ごして

くれ」

「・・・・・まったり、ですか? しかし屋敷の中の掃除や修繕もあるでしょう? 客人がいらっしゃ

ることも・・・」

「掃除は俺がこの宮に帰ってきた際に式神に遣らせるし、客は俺が不在なら帰るだろう。まぁ、強引に

上がり込む奴もいないではないが、お前はそんな奴の相手はしなくて良い」

 さばさばとした調子でいう天一神に少し呆れると共にふと気付いたことがあり、問い掛けた。

「そういえば、氷輪丸、いえ、大紅蓮はどうなさいました?」

 私の碧霞宮に訪れた際には確かに背に負っていた愛刀が、今天一神の側に見当たらないのを不思議に

思い尋ねれば、あっさりと「ヤマに返した」と告げられた。

「返納されたのですか?」

 これは本当に意外だった。

天一神の大紅蓮に対する固執はかなり強いものであった筈なのに。

「大事なものというのは多くは持てないものだ。お前が俺の手元に来てくれたのなら、俺の宝を一つ手

放すのは妥当なことだろう?」

 あっさりと云い、私の頬に伸ばされる優しい手。

「それにお前は大紅蓮が嫌いなのだろう?」

 悪戯っぽく聞かれ、内心を見抜かれていた恥ずかしさに、私は頬を染めて項垂れた。

「惣右介、お前は何も案じず、此処で平穏な日々を過ごしてくれ」

 私は天一神の手に自らの手を重ねて心の底から満足し、瞳を閉じた。

 

 

 

 それからは時折思い出したように『桜の宮』に帰って来る天一神を待ちながら、膨大な蔵書がある地

下と私室の行き来、そして現世の神社を主にして、巨大な宝物蔵に届けられる奉納品の整理で日々が過

ぎて行った。

 驚いたことにこの宮には只の一人も使用人がおらず、食事を初めとする雑多な家事は自分でこなさな

ければならなかったが、私にとってそれは少しも苦ではなかった。

 だがある意味天一神と私の蜜月と云えたこの期間は、僅か四年にも満たなかった。

 

 

 

 

 

 市丸ギンがこの『桜の宮』に還ってきたのだ。

 

 長年我が子を熱望していた裕福な両親の元に、五体満足の健康な身体で待望の跡取りとして生まれな

がら、幼さ故のちょっとした悪戯心が仇となり、あっさりとその幸福を手放し、ギンはこの宮に戻って

来たのだ。

 ギンを此処へ送り届けてくれたのは、一番隊の隊主羽織を纏った黒崎一護だった。

 瀞霊廷の、いや尸魂界の揺るぎない要、護廷十三隊の総隊長として、成長著しい黒崎の胸に抱かれて

やって来た幼いギンの帰郷と共に、私の平穏な日々も終わりを告げてしまった。

 

「ギン、止めなさい!」

 小さな指が張り替えたばかりの障子紙に突き立てられ、次々と穴が穿たれるのを発見し、声を荒げる。

 きゃあきゃあと笑いながら、よたよたと逃げて行く後姿を見送り、嘆息する。

 この障子はもうすぐ迎える新年に備え、先日私が張り替えたばかりの物だ。

 小さなギンは現世で親が付けた名前で呼ばない天一神や私にもすぐに馴染み、親を慕って泣くような

こともなかったが、この悪戯には全く閉口ものだった。

 なにしろ少し目を離すと何を仕出かすか判らない。

 足音を消して幼子の後を追えば、案の定、違う部屋の障子に人差し指を突き立てている真っ最中だった。

 ピンと貼った真っ白の紙に自分の指でぷすぷすと穴を開けるのは、小さな子供にとって楽しい遊びな

のだろうが、勿論黙認することは出来ない。

 天一神はギンが可愛くてならないらしく、甘やかし放題にしている。

 常に夜であったこの宮も、小さなギンが遊ぶのに不都合だというので現世と同じように日が登るよう

にしてしまったくらいだ。

 だからこそ、私までギンを猫可愛がりする訳にはいかなかった。

「ギン、止めなさいと云っただろう」

 纏っている着物の襟首を後ろから掴み上げると、小さな可愛い唇が不満そうに尖った。

「てんいちはボクのすきなことをしなさいっていったもん」

「天一様は『惣右介の云うことをよく聞きなさい』ともおっしゃっただろう? 忘れたのかい?」

 生意気な口答えを封じれば、その唇が悔しそうに歪む。

「そうすけ、キライ!」

 その言葉に私はにっこりとギンに笑い掛けた。

「そうか。ギンは私がキライなんだね? だったら仕方無い。ギンは今日の夜から一人で寝なさい」

「えっ!」

「だってギンは私がキライなのだから仕方ないよね?」

 笑顔を張り付かせてそう云えば、小さな身体がビクンと震え、大きな瞳孔が不安気に左右に揺れる。

「・・・い、い――もん。ボクはてんいちとねるもん」

 幼子の精一杯の反論に私はさらに笑みを深める。

「天一様は毎日帰ってらっしゃる訳ではない。そういえば今夜あたりは雨が降りそうだ、ギンの大嫌い

な雷も鳴るかもしれないな」

「・・・・・・・」

「でもギンは雷なんてコワクないよね? ご不浄にも一人で行けるよね?」

「・・・・・・・・・ぅ・・・」

「それだけじゃない。今日からはご飯も一緒に食べられないし、絵本も読んであげられなくなったなん

て、本当にギンに嫌われて悲しいよ。私は可愛いお前が大好きなのにね」

「・・・・・・・・・・・・」

 やがて私を見上げていた両目に大きな涙が堪り、それがすべらかな白い頬をぽろぽろと流れ落ち始める。

 それを見て私は膝を着き、泣いているギンと目線を合わせた。

「―――――『ごめんなさい』は?」

「・・・・・ひっ・・・くぅ・・・・・ご、ごめんなさい・・・」

 流れ落ちる涙を自分の袖で拭いながらギンが応える。

「『もうしません』は?」

「・・・もうしません!・・・っ」

 そう云いしな、わぁっ~~~っと抱きついて泣きじゃくるギンの身体を抱き上げ、サラサラの髪を撫

でると、ギンが尚一層強く抱きついてきて、我知らず頬を緩める。

 こんな『躾』が果たして将来この子の人格にどのような影響を及ぼすかは定かではないが、ただ漠然

と遣りたい放題の悪戯を放置出来ないのだからやむを得ないところだろう。

「・・・・・そうすけ・・・いいにおい」

 ぽつりと呟かれた言葉に、紛れもない市丸ギンの面影を見出し、胸の奥底から湧き上がる愛しさに黙

って瞳を閉じる。

 

 暫らくして、泣き止んだギンを下に降ろすと、以前造ってやった木製の玩具で遊ぶように云いおき、

破られた障子の修復に取り掛かることにした。

 この宮に来る以前の私なら使役すべき多くの者達に傅かれていたが、今は式神の一匹たりと使えない

身である。しかし、『力』を手放したことは微塵も悔やんでいなかった。

 

 

 

 一方、その頃・・・

「なかなか難儀しておるようだのぅ・・・良いのか、天一?」

 閻魔宮での閻魔王の問い掛けに、天一神はふっと笑った。

 閻魔王の自慢の『遠見の水鏡』」に、三歳児のギンと十六、七歳の外見の私が映し出されているのを

この時、勿論知る由もなかった。

「あいつは今やんちゃな盛りだからな。仕方あるまい」

「う・・・む。しかし、歴代の泰山府君の中でもずば抜けて優秀であった惣右介が子育てに奔走し、家

事に汗を流すとはのぅ・・・」

「そんなに同情するのなら、お前が取り上げた惣右介の能力の万分の一でも返してやったらどうなのだ?」

 おもしろそうにからかってくる天一神に対し、閻魔王は不愉快そうに太い眉を顰めた。

「何を意地の悪いことを申しておるのじゃ。そのようなことは出来る筈がなかろうが」

「・・・あぁ。――――出来る筈がない・・・な」

 美しい面が苦笑を零して伏せられる。

「ところで北惇大帝殿がぬしの宮へ足げく通っておられるという噂を耳にしたが、また娘子を押し付け

られておるのか?」

「いや、あの爺様の目的は俺ではなく惣右介だ」

「なんだと!」

「確かに最初娘を連れて遊びに来られた時は困ったのだが、俺はすぐに用事が出来て宮を出たのだ」

「逃げたのか」

「・・・俺が出掛けた後、惣右介が二人の相手をしてくれたのだが、用事を済ませて宮に戻っても爺様

から娘を娶れとは云われなかったな」

「・・・うむ。惣右介がなんぞやらかしたのか?」

「それが俺の帰りを待つ間、退屈凌ぎに爺様の碁の相手をしたらしいのだが・・・」

「ほう、北惇大帝殿の碁好きはつとに知られておるからな」

「ん。その時の勝負は惣右介が勝ったのだが、碁を打ってる間に俺に娶られても娘子は幸せにはなれな

いと爺様を諭したらしい。まぁそれは本当のことだろうが、その時以来惣右介と爺様は仲の良い碁敵だ」

「碁敵だと?」

「うん。なんでも今のところ惣右介の全勝らしい。人の子に負けたままではあの爺様は納まりが着かな

いのだろうが、かと云ってワザと勝ちを譲るには爺様が強すぎて、いつも接戦の末に惣右介が勝ってい

るらしい」

「やれやれ。・・・しかしそれはマズイのではないか?」

「う~~~ん。確かにな。かといって爺様に来るなとは云えないし。惣右介の方も口には出さないが、

内心では爺様の訪れを楽しみにしているらしいのでな。暫らくは様子を見ようと思っている」

「・・・困ったことにならねばよいがな」

 閻魔王が溜息を吐いて首を左右に振る様に、天一神も軽く肩を竦めたのだった。 

 

 

 

 

 

 日が傾き、夜の帳が降りる前に障子戸の修繕を終え、夕餉の支度に取り掛かっているところに天一神

が帰って来た。

「おかえりなさいませ」

「うん。ただいま」

「てんいち、おかえりなさい!」

 今まで私に纏わり着いて邪魔ばかりしていたギンが喜び勇んで天一神の元に駆け寄る。

 そのギンを軽々と抱き上げて天一神が私に微笑んだ。

「俺も食事の支度を手伝おう」

「いえ、お部屋の方でギンの相手をしてやって下さい。先程から悪戯ばかりするので困っていたのです」

「・・・お前、そんなに悪戯ばかりしているのか?」

 至近距離で天一神に見詰められたギンがぶんぶんと首を振る。

「どうか貴方からもよく言い聞かせて下さい。ギンの火遊びが元でこの宮が火事になったりしたら大変

です」

「そうか、判った」

 天一神に抱かれて去る市丸が私に舌を見せるのに嘆息する。

 実際問題として、ギンの悪戯が原因でこの宮が全焼してしまっても、ギンさえ無事であれば、天一神

は「燃えてしまったものは仕方ないな」と云って済ましてしまうだろうが、天上の住人達から『黄金の

恋』とまで歌に詠まれた相手に、住まいを燃やされてしまっては天一神の面目は丸潰れになってしまう

だろう。

留守を預かる身として、そんな醜聞は断固御免こうむりたい。

次に天一神の居ない時に目に余る悪戯をするようならば、今度は尻を叩かねばと思いながら、私は食

事の用意を急いだのだった。

 

 

 

「ボク、これ、キライ!」

 三人で食事の膳を囲んだ場で、自分の煮物の小鉢から人参を指で摘み、天一神の器の中へひょいと放

ったギンを私は即座に嗜めた。

「ギン、行儀の悪いことをしてはいけない。それに好き嫌いも駄目だ」

「だってにんじんはおいしくないもん」

 両親に溺愛されて育ったせいなのか、ギンは食べ物の好き嫌いが多い。大概は喰わず嫌いなのだが、

以前のギンであれば、食べ物の好き嫌いは殆どなかったのにと軽く眉根を寄せる。

「ギン、これは惣右介がお前の為に心を込めて作ってくれた物だ。金銭を払っての食事の席ならばとも

かく、この宮で出された物をちゃんと食べないのはいけないことだ」

 天一神はそう云うと、箸で人参を半分に割り、その片方を口に含んだ。

「うん。とても旨い。ギンも食べてみろ」

 天一神は半分になった人参を箸で摘み、ギンの口元に運ぶ。

「さぁ・・・ギン」

「・・・・・」

 一瞬、ギンの瞳が助けを求めるように天一神に向けられたが、揺るぎのない天一神の笑顔に覚悟を決

めたように目を閉じて口を開けた。

「・・・・・・・」

「どうだ? 旨いだろう?」

「んっ! おいしいっ!」

 咀嚼を終えたギンは目を輝かせて叫んだのだった。

 

 

 

 時を同じくして閻魔宮では・・・ 

 

「閻魔王様、お食事の準備が整いましてございます」

「うむ」

 牛頭大王と馬頭大王が数々の夕餉の膳を閻魔王の前までしずしずと運び込む。

「折角天一様がいらしたのですから、お食事にお誘いになればよろしゅうございましたのに」

 給仕をしながら牛頭大王が云うのに、閻魔王は苦笑を返した。

「あやつは自分の宮で愛しい二人と食事の膳を囲むのがなによりの楽しみなのじゃよ」

「―――先の泰山府君様はもう二度と責務にお付きになることはないのでしょうか?」

 遠慮がちに尋ねた馬頭大王に閻魔王は軽く唸ってみせた。

「お前達が先の泰山府君、いや、藍染惣右介を惜しむ気持ちはよく判る。本音を云えばわしとて、あや

つを手放したくはなかった。・・・これから先の世、あれを越える者は現れまいて」

「・・・先の泰山府君様は『桜の宮』で天一様の幼い想い人のお世話をされておいでと伺いましたが、

こちらから世話係を使わす代わりに、我が君が貰い受けられた『お力』を一時、先の泰山府君様にお返

しして、暫らくの間だけでも再び政務について頂く訳にはまいらぬのですか?」

 今度は牛頭大王が訴えるのに、酒の杯を口に運びながらも閻魔王は内心溜息を吐く。

 牛頭大王と馬頭大王がこれ程までに云うのも尤もだと思う。

 新たに泰山府君の地位に就いた者も決して無能者ではない。しかしながらその采配の差は余りにも歴

然としており、前任者の返り咲きを願う声はこの閻魔宮のみならず、尸魂界を始めとして方々から多数

寄せられ、閻魔王の悩みとなっていた。

「――――惣右介に『力』を返す訳にはいかぬのじゃ。何故ならわしはあやつから『力』の譲渡を受け

ておらぬのだからな」

「なんと申させました?」

 馬頭大王が叫んだ。

「それはまことでございますか?」

 牛頭大王も身を乗り出す。

「元来、人の子が生まれ持った能力を全て取り上げること事態至難の技じゃ。もしそれが可能であった

としても、惣右介程の『力』を一度にわしの中に注ぎ込めばこのわしとて只ではすまん! ―――それ

程の『力』なのだ!・・・あやつはの、このわしに己の力を差し出すという決意の元に、自分自身で己

の能力を封印したのじゃ。――――天一に難が及ぶやもしれぬという恐れがあの巨大な力に呪縛を掛け

、魂の奥深く閉じ込めてしまったのだ。」

「・・・で、では!」

 牛頭大王がゴクリと唾を飲み込む。

「そうじゃ。あの恐ろしい才は依然として惣右介の内にある!・・・先の反乱の折、あやつの『力』は

自身の滅亡に向けて動いていた。だからこそあれだけの被害で済んだが、もし仮に、本当に『天に立つ

』と考えていたなら、天界も予断を許さぬ事態になったであろうよ」

 牛頭大王と馬頭大王はその言葉に震撼し、絶句したまま互いに顔を見合わせた。

「先の泰山府君様はご自分の内にある力に気付かれぬのですか?」

 馬頭大王の問いに閻魔王は首を横に振った。

「人とは不思議なものじゃ。見たくないと願えば目の前にある物も見えず、その逆に持ってもおらぬ物

を所有していると錯覚したりもする。惣右介とてそれは例外ではない」

「その力は二度と目覚めることはないのでしょうか? 例えば己の身に災いが及んだ時や、生命の危機

に瀕すれば?」

 牛頭大王が心配そうに聞けば、閻魔王は手にしていた杯を卓に戻し、大きく息を吐いた。

「あやつの魂魄の奥深くで眠っている力は二度と目覚めぬと保障は出来ぬ。だが、あやつは己の生死に

関してはその力を振るうことはもはや有るまい。何故なら力無き人の子として生き、そして死ぬことが

あやつの真の望みだからじゃ。だからこそ尸魂界と虚圏、そして現世をも巻き込んで破滅への道を自ら

進んだのじゃ」

「「・・・・・・・」」

 訳が分からず沈黙する二人の従卒に、閻魔王は寂しげに笑った。

「あやつはの、誰もが羨む力を持ちながら、自身ではその力を激しく嫌悪しておったのじゃ。・・・も

し只の人の子であれば天一と共に行けたかもしれぬという思いが、自らの力を憎悪させたのだ」

「し、信じられませぬ!」

「本当にそのようなことが?」

 自分の言葉に息を呑む従卒達に閻魔王は静かに頷いた。

「あやつの力はこれから先も自ら知る事無く増し続けていくやもしれぬ。先ほど天一にも云っておった

のだが、北惇大帝殿の碁の相手を勤め、話相手として様々な知識を仕入れれば尚のことじゃ。だが・・・」

 閻魔王はそこで一度話を切り、閻魔宮の高い天井を見詰めて呟いた。

「仮にあやつが再び己の力を振るうことがあるとすれば、それは己自身の為ではなく、己の愛しい、大

切な者を守る為であろうよ」

 真理を見通す鋭い冥府の王の瞳に真摯な光が宿っていた。

 

 

 

 

 

「・・・こうきて、・・・・・ああして、・・・・・う~~~ん・・・また負けた・・・なぁ・・・」

 将棋の版の上を真剣に見詰めながら呟く天一神に私は目を細めた。

「ええ、今度も私の勝ちです」

「惣右介、お前強すぎるぞ」

 唇を引き結んでそう云う天一神の膝の間には、幼いギンが健やかな寝息をたてている。

 夕食後、三人で風呂に入り、将棋を指し始めた私と天一神の間ではしゃいでいたギンは、三番勝負の

決着が着くのを待たずに遊び疲れて眠ってしまった。

「そう申されましても手を抜くなとおっしゃったのは貴方ですから」

 苦笑して天一神からギンを抱き取り、敷いてあった寝床に小さな身体を横たえた。

「碁だけじゃなく、将棋までこんなに強いとは知らなかった。・・・しかし何時来てもお前の部屋は書

物だらけだな」

 そう云いながら手近にあった古びた和綴じの書物をぱらぱらと捲った天一神は、驚きの声を上げた。

「おい、惣右介、これは!」

「あ、はい。・・・北惇大帝様からお借りしたものですが、なにか?」

 サンスクリット語(梵字)で書かれたその書物は、天界の創世記を記した興味深い物だった。

「いや、あの爺様がよく貴重な物を他人に貸したと思ってな」

 感心したような響きの声音に少し引っかかるものを感じ、問い掛ける。

「貴重な物とは知りませんでした。以前こちらにおいでになったおり、お前は何が好きなのかと問われ

、書物を読むのを好んでいるとお答えしたら、その次のご訪問の時に土産代わりに持って来たとおっし

ゃるので、軽い気持ちでお借りしてしまったのですが、浅慮でしたでしょうか?」

 もしそうならすぐに返さなければとやや心配したが、天一神は「いいや」と首を横に振った。

「あの気難しい爺様がお前には純粋に好意を持ったのだろう。遠慮なく借りて読めばいいさ。ところで

まだ眠くならないなら一緒に酒を飲まないか?」

「喜んで」

 杞憂に終わった心配事に私は笑顔で頷いたのだった。

 

 

 

ギンが此処へ戻ってからはこの宮にも四季が通じるようになった。

 どうやらギンの情操教育の一環の為らしいのだが、天一神が宮にいる間の夜間に限り、この『桜の宮

』は夜桜が美しく咲き誇っている。

 その見事な桜を愛でる為に設えられた広い縁側の上で、私は天一神と差し迎えで花見の酒を楽しんで

いた。

「・・・先程ちらりとお前が云っていたが、ギンがお前に難儀を掛け過ぎるようなら何か手立てを考え

ようか?」

 杯を傾けながら聞いてくる天一神に、私は「大丈夫です」と微苦笑で応えた。

 実のところかなり振り回されてはいるものの、それでも私はギンが愛しかった。

「お陰で退屈せずにすんでおります。―――貴方の方こそ、相手があのような幼子では愛の言葉を囁く

訳にもいかないでしょう?」

 酒の席での軽口として、また対等な友としての私を望む天一神に対して揶揄れば、形の良い唇が笑み

を刷く。

「今少しの辛抱と云うところだな。ギンは賢いから何れ自分の立場に気付くだろうよ。今は俺のことを

兄とも父とも慕っていても、本当はそうではないのだと。・・・その時がきたらきちんと伝えるつもり

だ。―――お前は俺のかけがえのない恋人だと!」

 常春の宵の、現世の月とは格段に違う大きさを誇る望月の下で、満開の桜の花弁を背景に艶然と微笑

む美しい天一神に私は暫し見惚れたのだった。

 

「さぁ、遠慮なく飲めよ。この酒はヤマが土産に持たせてくれた閻魔宮秘蔵の酒なんだ」

 身動きもせずに美しい貌を見詰めていれば、酒の入ったとっくりを翳され、はっとして自分の杯に受

ける。

「美味しいですね」

 杯を干して一息つけば、目の前の相手は「そうだろう」と得意気だ。

 遠い過去に、天一神は執拗な閻魔王の求愛から逃れる為に人の魂魄を偽って尸魂界に潜伏していたと

云っていたが、それにしては二人は仲が好過ぎるように見受けられる。

 思い切ってそのことを尋ねれば、今まで機嫌好く杯を干していた手がピタリと止まった。

「あ~~~っ、あれな・・・・・。実はその、違うんだ・・・」

「違う? 何が違うというのです?」

 いきなり慌てふためく天一神を不審に思って少し厳しい表情で問い詰めれば、渋々といった様子で話

し始めた。

「俺にしつこく迫っていたのはヤマじゃない。帝釈天の野郎なんだ」

「帝釈天!」

 思わぬ告白に声を上げてしまった。

「そうだ。お前は知っているかもしれないが俺はアイツの家臣の身の上なんだ。だからアイツには従わ

ねばならん立場だが、かといって無理やり迫られても、はいそうですかと受け入れられるものでもない

だろう?」

 天一神が帝釈天の大臣の地位にいるというのは知っていたが、これは驚くべき内容だった。

「・・・無理やり迫られたのですか?」

「まぁな」

「それでまさかご自分の主である帝釈天に『手』を上げてしまったとか?」

「――――いや、『手』じゃなく、『足』を上げてしまった」

「・・・・・・・」

「流石にアイツを蹴り飛ばしてしまってからマズイことをしたと反省してな、かといって詫びを入れる

のも腹立たしいし、仕方なくほとぼりが冷めるまで尸魂界に潜んでいることにしたんだ」

「・・・・・・・・・」

「そんな、いかにも呆れたという顔をしないでくれ。心配するといけないと思って他の十二天将にも本

当の理由を告げなかったんだ。でも俺はそこでギンに出会えたし、お前とも再会出来た。それに多くの

友にも恵まれて、結果としては良かったと思っている」

 無言でいる私をどう見たのか、天一神はいつになく饒舌に言い訳した。

「・・・それでその後、帝釈天からお咎めは?」

 一番の心配事を確認すれば、天一神の目が泳ぐ。

「・・・・・一応詫びには行ったんだ。わざわざ須弥山の頂上の忉利天にある善見城まで行って来たん

だぞ」

「帝釈天はなんとおっしゃいました?」

「あの時のことは今までの俺の働きに免じて不問に伏すと云った。だから大丈夫だ」

 天一神は私を安心させるようにそう云ったが、勿論そんなことで納得する訳にはいかない。なにしろ

帝釈天といえば比類なき『力』の神にして、天界に聞こえた『前科者』なのだ。

「大丈夫ではないでしょう? 貴方は依然として帝釈天に悩まされているのでしょう? 私には本当の

ことを云って下さい」

 瞳と声に力を込めてそう云えば、「・・・ぅ」と詰まった天一神が諦めたように白状した。

「・・・お前の云う通りだ。アイツからは早く色好い思いをさせろと云われ続けている」

 やはりそうなのだ。遙か昔、現世で初めて出会って天一神はまだ幼い少年の姿だったが、それでも他

を隔絶するかのように美しかった。それが今は麗しさの絶頂たる青年の姿になっているのだ。特別色好

みの者でなくとも、到底これは放ってはおけまい。

「ヤマがしきりに北惇大帝の姫を俺に薦めたのも、俺が北惇大帝の娘婿となれば帝釈天の野郎もおいそ

れと俺に手出し出来なくなるからなんだ」

「そうだったのですか」

 改めて知った事実に私は内心臍を噛んだ。

「がっかりしただろう?・・・俺達『神』の実像も現世に暮らす人の子となんら変わらんということだ」

 肩を竦める天一神を私は慌てて否定した。

「いいえ。そんなことはありません」

 神とて美しいものに惹かれ、己がものとしたいと願うのは当たり前のことだろう。

 しかし、天一神を求めているのが帝釈天だというのは、いかにも心配だった。

何故なら帝釈天、すなわちインドラ大帝は、遠い昔、自分の部下であった阿修羅の娘舎脂を無理やり

我が物とし、これに怒った阿修羅と今日に至るまで永い永い戦を続けているからだった。

いや、私とて、目の前の美しい神に誰かが危害を加えたなら、決してその相手を許さないだろう。

 

「――――例え誰だろうと、貴方を害すれば許しはしない!」

 

 久しくなかった胃の府からの熱い想いが思わず口をついて出た。

「惣右介?」

 訝しげな天一神の声にはっとなる。

 私は今、何を嘴ってしまったのだろう? 許すも許さぬも、今の自分は非力な人間の身なのだ。以前

ならばまだしも、阿修羅のように帝釈天に戦いを挑むことなど出来よう筈がない。

 護廷隊の隊長を勤めることが出来る程の高い霊圧を誇るギンが、自分の手に余るようになるのは時間

の問題だと日々思案しているくらいだというのに。

 だが確かにこの時、私は初めて己の『力』を手放したことを悔やんだ。

 もしかすれば、自分の大事な者を守れたかもしれない『力』を手放してしまったことを・・・。

 唇を噛み締めて俯いた私の隣に、すっと天一神が移動し、その白い手が私の背を静かに撫でる。

「惣右介、俺には今お前が何を考えたのか判る」

「・・・っ」

「阿修羅のことを考えただろう? だがな阿修羅は帝釈天が阿修羅の娘を正式な夫人として遇した後も

怒りが収まらず、帝釈天に戦いを挑み続けた。その結果として天界を追われてしまったんだ」

「・・・・・」

「元々、阿修羅は正義を司り、生命生気の善神だったのに、怒りに我を忘れ、戦い続けるうちに何時し

か他者を赦すという心を失ったからだ」

 そうだ。そして阿修羅は天部を外され、阿修羅道の王となった。

「どうかお前は二度と俺のせいで『鬼』になったりしないでくれ」

 碧の瞳の哀願に私は黙って頷いた。

 

 もう二度と貴方の悲しみの元になったりはしません。

 

・・・・・・でも・・・それでも・・・

 

「惣右介」

 周巡を悟られたのか、再び名を呼ばれて顔を上げれば、目の前に天上の美があった。

「帝釈天とのことは昨日今日始まったことじゃないんだ。それにお前はこの俺が問題事の一つや二つ抱

え込めない器量だと思うか?」

 悪戯っぽく尋ねられ、頬を紅潮させた私は、まるで子供のように激しく首を左右に振ってしまった。

 その様に天一神の笑みが深まる。

「説教じみたことを云ってしまったが、お前がどんなに俺を想ってくれているかはよく判っている」

「・・・・・命様」

 

「ありがとう、惣右介!」

 

―――――!

 

 心に染み渡る声だった。

 

 重い不安もこの瞬間には消し飛んでしまった。 

 

只一言のその言葉、そしてその笑顔がどれ程私に幸福をもたらすのか、恐らくこの目の前の神は知る

由もないだろう。

 

 

 

遙か昔、暁の闇の中で私は貴方に出会った。

 

 それから幾星霜経っただろう。

 

 貴方と出会ってから私の望みは只一つだった。

 

藍色の天空に坐す、真円の大きな月。 

 

はらはらと舞い落ちる薄紅色の桜の花弁。

 

ずっと夢みていた。―――貴方がいるこの『桜の宮』で、貴方と共に在りたいと・・・。

 

そしてそれは永い時の果てに遂に叶えられた。

 

私は今、真昼の太陽よりも眩しい暁の光の中にいる。

 

 

                                 完
        
         


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