「ま、とにかく、上がって一服しられぇ」
と伝蔵小屋の主人の伝蔵は、ちょっと奥の方へ行ったかと思うと、両手に缶ビールを持って戻ってきた。
「ほい、飲まれぇ…、彼氏の分もあるよっ。昼飯、食べたんかー?」
「まだやけどー、弁当持ってきたから…」
「ならぁ、食堂で食べっこっちゃ。まだ、誰
「なぁーん、誰も見んかったわー」
そう言えば、松尾平を出発してから、ここに12:30分過ぎに到着するまでの間、誰一人降りてくる人にも
出会わなかったし、追い越した人も追い越された人もいなかった。
「まだ、ほかにお客さんおっがけぇ?」
「なぁーん、今ぁ誰もおらんけど、昨日
香奈子の富山弁は、標高が上がるたびに増えていくようであったが、ここへ来て、アクセル全開といった
感じである。三四郎は、伝蔵からもらった缶ビールを一刻も早く飲みたいと思っていた。今となっては、
前の休憩地点からここまでの時間が長くかかったことと、水分を補給しなかったことに感謝している
くらいである。
やっと、香奈子と伝蔵の話も一旦途切れ、リックを持ったまま食堂へ移った。伝蔵も盆にコップ三つと
軽いつまみと自分の分と思われる缶ビールを持ってやってきた。いくらお客が少ないようだとはいえ、
奥の方では、アルバイトのような、2〜3人のバンダナを頭に巻いて日焼けした若い男女が何か作業をしていた。
香奈子は、リックから三四郎の分もおにぎりと漬物を取り出していた。三四郎も、一応、前日パンを
買って持ってきていたのであるが、出さずに知らんぷりをしていた。
「さぁ、乾杯といくかぁ!」
と、伝蔵が缶を破ったのを皮切りに、三四郎も待ちに待った缶のタブを、プシュッーと引っ張りあげた。
泡
「ほいっ!」
と言って目の高さに上げた伝蔵のコップに、カチンと三四郎と香奈子のコップを合わせた。
「三四郎さん、私、そんなに飲めないから…あと飲んで…」
そう言って、香奈子が缶を向けたのを三四郎はコップを差し出して受け入れた。自分では気づかない
ようであるが、香奈子が三四郎に向かって話すときは、できるだけ標準語を話そうと無意識に思うようであるが、
それも、伝蔵に向かうと緊張から開放されるのか、100%に近い富山弁となる。
まだ、コップに半分ほどしか飲んでないのに、香奈子の二重まぶたの下の辺りがほんのりとピンク色に
なっているのを見ると、本当にアルコールはダメなのかもしれない。
「おぉ、姿三四郎かぁ、強そーじゃのー」
「あっ、清水三四郎です。よろしく…」
「んん?、どーなっとんがじゃ…香奈ちゃん…、やっぱぁ、籍入れとったんかぁ?ぃやー、そっかぁ、
婿
と、目を白黒させる伝蔵に、これはちょっと信じてもらえないのじゃないかという不安が頭をかすめ、
厄介
「『清水』なんて苗字、どこにでも転がっとるよ」
と、むきになって答える香奈子を援護するように、三四郎も会話に加わった。
「ほんとなんです。僕もはじめて解ったときは、びっくりしたんです。そのうえ、兄弟まで
同じ
「………」
「一番上が姉、次に、男、男ときて、次が僕なんですが、四番目なんで…、一緒なんです」
「四番目だけ、男と女で違うのよ」
2人がかりで攻められては分
「そらぁ、運命的なこっちゃの…、そっでぇ、あんたぁ、剱ゃ初めてなんか?」
「えっ、あぁ…、初めてどころか、こんな高い山の登山なんて初めてですよ」
「そらぁ、よー来てくれたわ。明日
「なーん、剣沢下
「ほーん、ならっ、志鷹
登山については香奈子任せの三四郎は、どこをどう通って帰るのかさっぱり解っていなかったが、
『仙人池』という言葉には、ある種特別なイメージと憧れのような期待を無意識のうちに感じていた。
あまりにも、今までの生活空間と違いすぎているところで、こうやって、ほろ酔い加減でビールを
飲んで、香奈子や伝蔵と話をしていると、一瞬、自分は誰で、どこで何をしているのか解らなくなってきてしまう。
ハッとそのことに気づいて、自分は今、剱岳へ行く途中の伝蔵小屋で、昼飯を食べながら、香奈子と伝蔵と
ビールを飲んで、話をしているのだ…と一つ一つ確認し直していた。
「明日の天気はどんなもんでしょうか?」
「まあ、明日もこんなもんじゃろ」
三四郎の問いかけに伝蔵が答えたが、
「伝蔵さんの天気予報って、当てにならないんだから…」
そんな話を小一時間ほどしている間にも、2〜3組の来客があったらしく、その都度、伝蔵は
席をはずしていた。
空腹も満たされ、さほど飲んでないのに香奈子はトローンとした目になっており、
三四郎も空
「じゃあ、部屋で休もうか…」
香奈子の言葉に従って部屋に入ると、先ほどやって来たと思われるお客同士で山の話をしているようであった。
2人は、軽くあいさつを交わして、少し距離を置いた場所でリックを降ろした。
香奈子は、リックの中身をなにやらゴソゴソと出し入れしていたようであるが、三四郎がゴロンと
仰向
お客同士の話をずっと聞いていたつもりであるが、途中から先は全く思い出せない。
「いびきかいてたね…」
三四郎が目を開けて覚醒したと見て取った香奈子が、覗
普段はあまりいびきはかかないのであるが、疲れて酒を飲んだときなどはてきめんにかくようなのだ。
「ねぇ、ちょっと、外散歩してこーよ」
「あぁ、うん…」
三四郎は、足などはバタバタという感じで疲れ果てており、アキレス腱の辺りなどは痛みも感じていた。
今日はもう、これ以上歩く気はなかったのであるが、そんなそぶりを見せないよう努めて返事した。
2人は、玄関のツッカケを履
香奈子は、来た道を戻る方向にぶらぶらと黙って歩き始め、登って行くので、しかたなく三四郎も
ついて行った。
最初に伝蔵小屋が見えた辺りまで戻ると、大きく前に立ちはだかっていた山が、
かすかにオレンジ色の光を帯びて鮮
反対方向に目を移すと、これから太陽が沈んでいこうとしているところを見ると、西の方角であるのが
想像できる。空のブルーが、下へ移るに従って、イエロー、オレンジ、レッドと明確な境界線なく変化している。
さらに、その下に広がる風景を認識したとき、
「うぉぁっ」
と、三四郎は言葉では書き表せないような発声を小声で呟
『雲海』という言葉は聞いたことはあった。飛行機の下に広がる雲を見下ろしたこともあった。
しかし、今、目の前には、白く柔らかく動かない波が、大海原
この雲の奥深い海底では、今もたくさんの人が悲喜こもごものドラマを演じていることであろう…
そんな下界を超越した雲上の世界に、今、自分はいるのだ…
香奈子は何を思って眺めているのだろうか?
「あのギザギザの稜線が小窓尾根で…」
香奈子は、いつしか剱本峰の方を向いており、あのまん丸な深緑色
香奈子は続けた。
「…右側にちょっと見えるのが剣尾根で、小窓尾根の一番上のあのピークが小窓の王で…、次の左の、
尖
生きいきと瞳を輝かせて説明する香奈子の髪の毛の輪郭だけが、黄金色
一所懸命
(今、この手で香奈子さんを引き寄せなければ…)
そう思ったとき、腹から胸へと熱い電流が流れ、まだ、乗り越えてないことへの不安と緊張に、
心臓は急にソワソワと脈打った。
今までの三四郎であれば、ここで、腕が凍りつき動かなくなってしまっていた。その場は無難に通り過ぎたように感じたが、
後から襲ってくる空
動いた。窒息した三四郎の指先は、香奈子の頬
ゆっくりと、香奈子の視界からは、美しい雲海も小窓尾根も消えていった。
真夏とはいえ、次第に冷気が周囲に満ちてくる中で、唇
〔3ページ(未稿)へつづく(H14/9/30)〕

