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第3章 天国への階段

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 これまでのペースでいけば、そろそろ休憩にしてもいい頃であるが、香奈子はまだそんなそぶりをみせない。
 実は、三四郎は30分ほど前から腹がへって、登る足に力が入らなくなっていたのだが、 (ひざ)をぐっと手で押さえたりしながらがんばって登っていたのである。次第に、大きな岩が割合多く目に付くように なってきているようだ。
 一つの岩を登ると稜線(りょうせん)に出た。するとまた、目の前には次のピークが立ちはだかっている。
 後から登ってきた香奈子が並んで立ち止まり、ニッコリ微笑んで、足元のほうに視線を移す。
 それに(なら)って、三四郎も視線を眼下に移すと、
「あれーっ、小屋だー!小屋に着いたよ…」
「やったねぇー、これで、ゆっくりよー」


 まもなく、小屋の前に下りると、10mほど先の熊笹(くまざさ)(やぶ)の中で、(おり)に入った熊が動いている。 一瞬、ドキッとしたが、仕掛けてあった(わな)にひっかかったものであろう。この()()りの熊を どうするのだろうかと考えながら、香奈子に従って小屋の中に入った。
「こんにちわー」
「こんちわー」
 香奈子に続いて、三四郎もあいさつしたが、たまたま玄関にいた丸顔の人のよさそうな、いかにも山の人という感じ のおじさんは、香奈子を見て、
「おぉー、香奈ちゃん、来たがかー!」
 と言って、三四郎の方へチラッと視線を向けてから、すぐにまた香奈子の方に視線を落ち着けると、
「おぉ、旦那(だんな)はんも一緒に来たんか…」
「違うって…、そんながじゃなーて…、まだ、結婚しとらんよ…」
「ほーぅ、じゃあ、いつ式あげっがじゃぁ…」
「またー、伝蔵さんったらぁ…もぅ」
 三四郎が(のぞ)き込んだ香奈子の薄っすらと日焼けした横顔にも、かすかに赤みが差したのを見て取れた。

コバイケイソウ 「ま、とにかく、上がって一服しられぇ」
 と伝蔵小屋の主人の伝蔵は、ちょっと奥の方へ行ったかと思うと、両手に缶ビールを持って戻ってきた。
「ほい、飲まれぇ…、彼氏の分もあるよっ。昼飯、食べたんかー?」
「まだやけどー、弁当持ってきたから…」
「ならぁ、食堂で食べっこっちゃ。まだ、(だっ) かぁ、登って来る(もん)おったかい?」
「なぁーん、誰も見んかったわー」
 そう言えば、松尾平を出発してから、ここに12:30分過ぎに到着するまでの間、誰一人降りてくる人にも 出会わなかったし、追い越した人も追い越された人もいなかった。
「まだ、ほかにお客さんおっがけぇ?」
「なぁーん、今ぁ誰もおらんけど、昨日(きんの)泊まっとって、 頂上行って、またこっち来る言うとった(もん)なぁ、 二組あっらぁ」

 香奈子の富山弁は、標高が上がるたびに増えていくようであったが、ここへ来て、アクセル全開といった 感じである。三四郎は、伝蔵からもらった缶ビールを一刻も早く飲みたいと思っていた。今となっては、 前の休憩地点からここまでの時間が長くかかったことと、水分を補給しなかったことに感謝している くらいである。
 やっと、香奈子と伝蔵の話も一旦途切れ、リックを持ったまま食堂へ移った。伝蔵も盆にコップ三つと 軽いつまみと自分の分と思われる缶ビールを持ってやってきた。いくらお客が少ないようだとはいえ、 奥の方では、アルバイトのような、2〜3人のバンダナを頭に巻いて日焼けした若い男女が何か作業をしていた。
 香奈子は、リックから三四郎の分もおにぎりと漬物を取り出していた。三四郎も、一応、前日パンを 買って持ってきていたのであるが、出さずに知らんぷりをしていた。

「さぁ、乾杯といくかぁ!」
 と、伝蔵が缶を破ったのを皮切りに、三四郎も待ちに待った缶のタブを、プシュッーと引っ張りあげた。 (あわ)の吹き出したビールを3人はコップに移し、
「ほいっ!」
 と言って目の高さに上げた伝蔵のコップに、カチンと三四郎と香奈子のコップを合わせた。

2400mピーク 「三四郎さん、私、そんなに飲めないから…あと飲んで…」
 そう言って、香奈子が缶を向けたのを三四郎はコップを差し出して受け入れた。自分では気づかない ようであるが、香奈子が三四郎に向かって話すときは、できるだけ標準語を話そうと無意識に思うようであるが、 それも、伝蔵に向かうと緊張から開放されるのか、100%に近い富山弁となる。
 まだ、コップに半分ほどしか飲んでないのに、香奈子の二重まぶたの下の辺りがほんのりとピンク色に なっているのを見ると、本当にアルコールはダメなのかもしれない。
「おぉ、姿三四郎かぁ、強そーじゃのー」
「あっ、清水三四郎です。よろしく…」
「んん?、どーなっとんがじゃ…香奈ちゃん…、やっぱぁ、籍入れとったんかぁ?ぃやー、そっかぁ、 婿(むこ)はんか?婿はん来てくれたんかー…」
 と、目を白黒させる伝蔵に、これはちょっと信じてもらえないのじゃないかという不安が頭をかすめ、 厄介(やっかい)だなと思ったが、
「『清水』なんて苗字、どこにでも転がっとるよ」
 と、むきになって答える香奈子を援護するように、三四郎も会話に加わった。
「ほんとなんです。僕もはじめて解ったときは、びっくりしたんです。そのうえ、兄弟まで 同じ(おんなじ)なんですよ…」
「………」
「一番上が姉、次に、男、男ときて、次が僕なんですが、四番目なんで…、一緒なんです」
「四番目だけ、男と女で違うのよ」
 2人がかりで攻められては()の悪い伝蔵は、一歩譲ることにして話題を変えた。
「そらぁ、運命的なこっちゃの…、そっでぇ、あんたぁ、剱ゃ初めてなんか?」
「えっ、あぁ…、初めてどころか、こんな高い山の登山なんて初めてですよ」
「そらぁ、よー来てくれたわ。明日(あした)頂上行って、 ピストンで馬場島()りて行くがか?」
「なーん、剣沢()りて、仙人で泊まろう思っとんがよ」
「ほーん、ならっ、志鷹(したか)のかあちゃんによろしく言うといてくれや…」

 登山については香奈子任せの三四郎は、どこをどう通って帰るのかさっぱり解っていなかったが、 『仙人池』という言葉には、ある種特別なイメージと憧れのような期待を無意識のうちに感じていた。 あまりにも、今までの生活空間と違いすぎているところで、こうやって、ほろ酔い加減でビールを 飲んで、香奈子や伝蔵と話をしていると、一瞬、自分は誰で、どこで何をしているのか解らなくなってきてしまう。 ハッとそのことに気づいて、自分は今、剱岳へ行く途中の伝蔵小屋で、昼飯を食べながら、香奈子と伝蔵と ビールを飲んで、話をしているのだ…と一つ一つ確認し直していた。

「明日の天気はどんなもんでしょうか?」
「まあ、明日もこんなもんじゃろ」
 三四郎の問いかけに伝蔵が答えたが、
「伝蔵さんの天気予報って、当てにならないんだから…」
 そんな話を小一時間ほどしている間にも、2〜3組の来客があったらしく、その都度、伝蔵は 席をはずしていた。
 空腹も満たされ、さほど飲んでないのに香奈子はトローンとした目になっており、 三四郎も()きっ腹で勢いよく飲んだせいか、いつもよりはだいぶ早く酔いが回っているようである。
「じゃあ、部屋で休もうか…」
 香奈子の言葉に従って部屋に入ると、先ほどやって来たと思われるお客同士で山の話をしているようであった。 2人は、軽くあいさつを交わして、少し距離を置いた場所でリックを降ろした。
 香奈子は、リックの中身をなにやらゴソゴソと出し入れしていたようであるが、三四郎がゴロンと 仰向(あおむ)けに寝転がると、真似(まね)するように寝転んだ。目を閉じていると、先ほどのお客同士が、 「カニの横這(よこば)い…」とかなんとか、どうも剱岳の頂上から下りて来た時のような話をしているのが聞こえてくる。 そのほかには、自家発電のエンジンの音がプーンと鳴り続けているのが耳に入ってきたが、 それも、いつの間にか意識の外に消えていた…

コブシの花と小窓尾根  お客同士の話をずっと聞いていたつもりであるが、途中から先は全く思い出せない。
「いびきかいてたね…」
 三四郎が目を開けて覚醒したと見て取った香奈子が、(のぞ)き込むようにして言った。
 普段はあまりいびきはかかないのであるが、疲れて酒を飲んだときなどはてきめんにかくようなのだ。
「ねぇ、ちょっと、外散歩してこーよ」
「あぁ、うん…」
 三四郎は、足などはバタバタという感じで疲れ果てており、アキレス腱の辺りなどは痛みも感じていた。 今日はもう、これ以上歩く気はなかったのであるが、そんなそぶりを見せないよう努めて返事した。 2人は、玄関のツッカケを()いて小屋の前へ出ると、到着した時にはガスで(おお)われていたのに、 くっきりとした青空に変わっていた。
 香奈子は、来た道を戻る方向にぶらぶらと黙って歩き始め、登って行くので、しかたなく三四郎も ついて行った。

 最初に伝蔵小屋が見えた辺りまで戻ると、大きく前に立ちはだかっていた山が、 かすかにオレンジ色の光を帯びて(あざ)やかな深緑色(ふかみどりいろ)を描写している。 そして、来たときには見えなかったが、その山を(おお)雌鳥(めんどり)鶏冠(とさか)のような形で、 剱岳の頂上とその稜線上部の岩が薄く輝いている。
 反対方向に目を移すと、これから太陽が沈んでいこうとしているところを見ると、西の方角であるのが 想像できる。空のブルーが、下へ移るに従って、イエロー、オレンジ、レッドと明確な境界線なく変化している。 さらに、その下に広がる風景を認識したとき、
「うぉぁっ」
 と、三四郎は言葉では書き表せないような発声を小声で(つぶや)いてから、ぼぉーっとその風景を(なが)めていた。
 『雲海』という言葉は聞いたことはあった。飛行機の下に広がる雲を見下ろしたこともあった。 しかし、今、目の前には、白く柔らかく動かない波が、大海原(おおうなばら)となって静かに広がっている。 自家発電の音が、遠く小さく聞こえることが、よけいに静けさを際立(きわだ)たせているようにも感じる。 まさに、海に浮かぶ島々のように、3000m級と思われる山々の上部が雲の上にあちこち顔を出しており、 こちら側の早月尾根の岸辺にも雲の波が打ち寄せている。

 この雲の奥深い海底では、今もたくさんの人が悲喜こもごものドラマを演じていることであろう…
 そんな下界を超越した雲上の世界に、今、自分はいるのだ…
 香奈子は何を思って眺めているのだろうか?

「あのギザギザの稜線が小窓尾根で…」
 香奈子は、いつしか剱本峰の方を向いており、あのまん丸な深緑色(ふかみどりいろ)の 山の左に、幻想的とも思える姿で切り立っている峰々を指差して言った。香奈子の指先の方向に振り向いた三四郎 にさえも、ものすごいインパクトを与えるのだから、剱岳を代表する稜線であることが容易に想像できる。
 香奈子は続けた。
「…右側にちょっと見えるのが剣尾根で、小窓尾根の一番上のあのピークが小窓の王で…、次の左の、 (とが)ったのがM字ピークで、それから、あの箱のようなのがマッチ箱…」
 生きいきと瞳を輝かせて説明する香奈子の髪の毛の輪郭だけが、黄金色(こがねいろ)()き通っている。その髪の毛の先を 風が(かす)かに揺らしていた。
 一所懸命(いっしょけんめい)に説明してくれる香奈子に対し、三四郎は真剣に山を眺めたり香奈子の方を見たりしていたように見えるが、 山の名前の方はほとんどうわのそらで、わずかに、マッチ箱という名前だけが頭の片隅に残った程度である。本当は、 ゆっくりと香奈子を眺めていたかったというのが正直な気持ちである。

(今、この手で香奈子さんを引き寄せなければ…)

 そう思ったとき、腹から胸へと熱い電流が流れ、まだ、乗り越えてないことへの不安と緊張に、 心臓は急にソワソワと脈打った。 今までの三四郎であれば、ここで、腕が凍りつき動かなくなってしまっていた。その場は無難に通り過ぎたように感じたが、 後から襲ってくる(むな)しさと後悔にこれまで十分苦しめられてきた。ただ、無意識の中で、香奈子に出会ってから これまでの時間の流れが、香奈子は自分を受け入れてくれているという確信となっていた。しかし、次の瞬間、 例のごとく、過去にあったような拒絶の映像が頭を()ぎろうとした時、ぐっと、 苦い薬を嫌々(いやいや)飲み込むように、三四郎は右腕を前に出した…
 動いた。窒息した三四郎の指先は、香奈子の(ほお)から(あご)にかろうじて触れることができた。 その瞬間、香奈子の全身にビクッと電流が走ったのを三四郎の死んだ目が(とら)えたが、すぐに、三四郎が 確信した時の流れを香奈子も思い出した。
 ゆっくりと、香奈子の視界からは、美しい雲海も小窓尾根も消えていった。
 真夏とはいえ、次第に冷気が周囲に満ちてくる中で、(くちびる)から始まった 柔らかく甘く温かな感覚が、ジーンとすぐにお互いの全身を埋め尽くしていた。 そして、間もなく、二人の胸の鼓動(こどう)は重なり合っていった。

  〔3ページ(未稿)へつづく(H14/9/30)〕 



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