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第3章 天国への階段

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 早月尾根から剣岳へ登ることになった。馬場島の登山口から登り始めるが、いきなり急な登りだ。
 香奈子が、
「一歩一歩、ゆっくり自分のペースで行ってね」
 と言うので、自分が先に歩くことになる。たった5分登っただけで、ハアハアと息が切れ、おまけに、 真夏の熱さのせいで、もうティーシャツは汗でびっしょりである。余分なものを持たないようにしたので、 リックサックの重さはたかだか10キロ程度の重さのはずだが、異様に重たく感じる。
 必死の思いで30分余り登ると松尾平というところに出る。木のベンチが置いてあり、登山者と思え ない軽い格好の人たちが数人休んでいる。そういえば、途中も何人かとすれ違っていた。香奈子は、 空いたベンチの一つにリックを降ろし、腰掛けたので、自分も隣に座った。

 (はる)か眼前に剱岳が見えるが、()し暑い空気の層を通して見ているためか、岩肌(いわはだ)や雪渓の詳細なラインは ぼやけて、青いシルエットのように浮かび上がっている。香奈子が馬場島で水筒に粉末のポカリスエ ットを入れて作ったものを飲ませてもらった。『うまい!』乾いた(のど)()み込んでいくようだ。 こんなに充実感、爽快感(そうかいかん)を味わったことがこれまであっただろうかと三四郎は考えていた。

お花畑  しかし、この後、時間をかけてじっくりと、嫌というほど思い知らされることになるのである。
 ここまでは確かに急な傾斜の登りではあったが、剱岳の頂上までの行程を考えた場合に、 それは序曲の中の序曲程度だったのである。

「じゃあ、そろそろ出発しましょう」
 という香奈子の言葉に促されて、まだ10分も休憩していないのに、三四郎も渋々とリックを背負った。
 幸いなことに、今度は、今までのように急な坂でなく、なだらかなアップダウンがあるだけで、登りやすい。 しかし、そう思ったのはつかの間で、どこかでアップしたまま、ダウンすることは全くと言っていいほどなかった。
 と、誰かが遠くから「ピイーッ」と口笛を吹く声が聞こえた。こんなによく通って聞こえるのも不思議であるが、 両手の指を口に突っ込んで、はやし立てるように吹く、あれであろう…しかし、まあ、こんなところでも、 口笛を吹く者がいるのだなあ…と思っていると、
「この辺は、猿が結構多いの…、ほら、あそこ、おもしろいもの見つけたよ。」
 と、香奈子が指差した先には、岩のような石があった。その上の方をよく見ると、小さな紫色の木の実のようなものが、 乱暴にばらまかれていた。
(えっ、そっかあ、じゃあ、あの口笛のようなのは猿の鳴き声だったのか…)
「あれって、猿が山葡萄(やまぶどう)()んできて…、ワインができるのよ…、『猿のワイン』って呼ばれとるがよ…」
「えっー、ほんとにー」
 とても、そんなふうには見えなかったが、人間に次いで賢い猿のことだから、自然にそんな知恵を身に付けたの だろうか…

高嶺の花  そんな話題でも聞きながら登っているうちは、気もまぎれて、まだいいのであるが、どうしても黙々と登らなければ ならない時間がほとんどである。重力に逆らって、あまり変りばえのしない登りだけの道は、息も絶え絶えで、 一歩足を上げるのもスローになり、苦しい。
 今日は、伝蔵小屋というところまで行くそうであるが、いったい、あとどれ位かかるのか、どの辺まで来たのか… そんなことばかりが気にかかるが、さすがに、何度も香奈子に尋ねるという勇気もない。
 どうも、30分位登ると小休憩させてもらえるようだ。しかし、これまで、腰掛けて休ませてもらったのは、松尾平を 過ぎてからは一度位しかなかったかもしれない。ほとんど、リックを(かつ)いで立ったままで、5分ほどすると出発するので、 タバコも急いで吸わなければならない。
「まあまあ、いいペースで来ているわ…」
 そう言われて、あわててタバコに火をつけて、ふと(まわ)りを見ると、1800mと記された白い標識のようなものが土に 埋め込まれていた。その同じ標識に香奈子も視線を向けながら、
「あれ、200メートルごとに立ってるんだけど、30分位で来てるから、いい調子よ…」
 確かに、1600mとか1400mって書いた標識があったかもしれない…
「馬場島って、標高何メーターだったっけ?」
「えーっと、確か…、750メートル位だったかなぁ…」
「ふーん、それじゃあ、ここまでちょうど1000メーターほど、もう登ってきたのか…。大変なもんだ…。 寺やお宮の石段だったら、いったい何段分ほどあるんだー?」
「………」

 いつの間にか、また、登り始めていたが、たった一歩を上に運ぶのが大変である。ものすごい大股でないと またげなかったり、必死に木の小枝にしがみついたり、(とが)った石の上に足をのせてよろめいたりしながら登った。 ふっと、下りもここを降りてくることを想像するとぞっとする。
 しかし、確かに、登り始めた頃に較べると、一汗かいて身体が温まってくると、曲がりなりにも足が前へ 出て行くようである。あるいは、やけくそのような慢性化した惰性が足を前へ運んでいるだけかもしれないが…。 とにかく、登り始めほど鮮烈な苦痛はない。苦痛さえ意識しなければ、考える時間はたっぷりとあるのだから、 自分の身体を前に倒せば嫌でも前に進むだろう…とか、三四郎なりに工夫もしているのである。
 それにしても、香奈子の呼吸が乱れてないのが不思議である。
 都会育ちの三四郎にとっては、土と樹木と(こけ)の合わさったような鼻を突く強い匂いが印象的だった。 これが、山の匂いとでも言うべきなのだろうか? それも、今となっては意識する余裕もなかった。
 と、突然、香奈子が立ち止まり、腰をかがめて、ブルーベリーのような赤紫のつぶつぶをつまんで、 一粒を自分の口に放り込んで、もう一粒を差し出してくれた。
「これ、コケモモって言って、食べれるがよ…」  噛むと、山の香りがほのかに混ざったような甘酸(あまず)っぱい汁が口の中に広がった。
「おお、これはいい!」
「でしょう…、元気が出てくるよ…」
 三四郎は、そこに目に付いた比較的黒っぽく熟した実を、たて続けに3〜4個つまんで口に頬張(ほおば)った。 それから後は、道の脇に目に付くたびに、サッと1〜2粒つまんで食べながら歩いた。気のせいではなく、 本当に疲れがなくなり、エネルギーが()き出てくるようだ。

 快調に登っていて気づかなかったが、いつの間にか樹木と樹木の間には白いガスが充満しており、 5mほど先の樹木も霧の中にぼぉっとかすんで見える。それまで見えていた青空も青い山のシルエットも 見えなくなって、水墨画のような世界になっていた。涼しく、歩きやすくもなっていたのである。
(子どもの頃、孫悟空のように雲の上に乗ってみたいと思ったことがあったけど、そうかぁ…今は雲の中にいるんだ! これじゃ、とても、乗るなんてことはできないなぁ…)
 三四郎は、この雲の上へとまだまだ登っていくと、雲上の世界があるのだろうかとワクワクしてきた。
(自分の足で、歩いて雲の上に行くことができるのか…!ここは、長い長い階段だ!天国への階段だ!)


  〔2ページへつづく(H14/9/23)〕 



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