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第1章 闇の中で

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 大学に入学してから、どうしてか分からないが、三四郎は次第に、沢井 涼子(すずこ) というクラスメイトの()()かれていくようになった。
 とにかく、三四郎が可愛(かわい)いと感じたのだから仕方がない。男友達が集まれば、 誰が可愛いとか言ってイジイジと品定めをするのが常である。 後で気がついたことであるが、もてる男とか彼女のいる男は、あまり、 そんな話には加わっていなかったようである。実践あるのみである。
 とにかく、強引に押し続けるのがいいと力説する者もいた。最後は力ずくでという強硬論もあった。
 自信のない三四郎は、話が(かたよ)った方向へ行っても、自信たっぷり言い含められると、 そんなもんかなぁと影響を受けてしまう。
 
 次第に、三四郎の学生生活の中で、かなり大きな時間を涼子が頭の中を占領するようになってくる。 これでは、たまったものではない。当初は、涼子への想いのことなど友人に話すつもりは 毛頭(もうとう)なかったのであるが、 さすがに、()(たま)れなくなって、ポロッポロッと ()れていき、(つい)には、誰もが知る事実となった。
 なにしろ、三四郎の涼子への執着、妄想はひどくなる一方だ。マージャンをやっていても、 どういった因果か「(はつ)」の(パイ)を涼子と 思い込んでしまうと、最初から一枚も「發」がなくても毎回集めてしまう。こんな異常な打ち方を他の者はちゃんと 見透(みす)かしており、 冷静に読まれてバレバレなのである。これではマージャンに勝てるわけがないが、いろんな場面で、すぐに何でも涼子に 結びつけて考えてしまうのである。
 

天狗と般若  悶々(もんもん)とした毎日は苦痛である。 ただ、たまに姿を眺めておれたらそれでいいと思ったりもした。 しかし、自分の気持ちを告白するということも苦痛であった。眺めることもできなくなり、失ってしまうことの恐怖…
 その告白することの苦痛を、毎日悶々とすることの苦痛が上回(うわまわ)り始めていた。
 
 ある日、クラスの有志の参加を(つの)ってコンパをすることになった。 ()れ聞くところによると、 涼子も参加するとのことであった。もちろん、三四郎も参加したいと思った。そして、三四郎の胸には、一大決戦のごとく ある決意を秘めていた… と言えばカッコいいが、とにかく、 この苦しさから(のが)れようとするための、 柳川鍋の泥鰌(ドジョウ)が熱さに耐えかねて豆腐の中に (もぐ)()むような行為に過ぎないかもしれない。
 
 さて、そのコンパの当日がやってきて、どこかの居酒屋で宴会が始まったのではないかと思う。 あちこちで、話が盛り上がったり、 静かになったりしていた。どうやってそこまで()ぎ着けたのか分からないが、とにかく、 三四郎は涼子とツーショットで何かの話題で話をしていた。そして、周囲の者がそれぞれの 話題で(にぎ)やかな時、三四郎は涼子の言うことしか聞き取れず、 両隣の者もまた同様で、当然、三四郎たちの会話には全く関心がないかのように思われた。

 今こそ、一大決心を実行する時だと思うと、急に、ソワソワと胸騒ぎのような感じがしてくる。 普通、アルコールが入れば口も滑らかになってくるものであるが、逆に、 三四郎の口は(こお)りついたように重苦しくなってくる。
 これまでも、何度か涼子に二人だけで会ってほしいと言おうと思ったことはあった。その都度、 なんでこんな話題で話している時に、突然、そんな関係のない話をするんだ!  という気持ちに襲われてしまう。そして、そんな非常識なことを言うのはやめてしまえ! と 命令する自分が強くなり、じゃぁ、やめよう… ということになり、 ホッと安堵感(あんどかん)から気が楽になる。 しかし、問題を先送りしただけの逃げの一手では、時がたてば、同じ苦しみが後悔と自責の念とともに再び襲ってきて、 より苦しみは倍増して、いつまでも泥沼から()い上がることはできない。

 思えば、中学や高校でもこんな煮え切らない感じのことがしばしばあったように思うが、 今ほどの問題意識はなかったようである。
 振り返れば、その時はあまり気に留めなかったが、三四郎が、 言うべき時にタイムリーに言うべきことを言わなかったために、 相手の失望したような表情を感じたことがあったようにも思えてくる。
 いずれにしても、この()(およ)んでは、もはや、 言うしか道はない。やはり、悪魔が(ささや)くように、「何を突然、そんな 関係のない話を…」と言ってくるのであるが、「これでいいのだ!」とそんな声を聞かないようにして、 三四郎は清水の舞台から飛び降りた…
 
 
「あの…、今度の日曜日、会えないかな…」
 
 そう声を(しぼ)り出した後で、三四郎は、 なにか自分の声でないような抑揚(よくよう)のない声のように感じた。
(これじゃダメだ…)
 と思っていると、ハッと驚いたように三四郎を見つめながらも、
 
「えっ、えぇ…」
 
 と、即座に首を縦に振りながら涼子から返ってくる言葉に、 (信じられない、地獄に仏とはこのことか…)と思いながらも、 今度はホッとしたのか、言葉も少し平静を取り戻して滑らかとなる。
 
「じゃぁ、紀伊国屋書店で10時に…」
 
 日曜日の当日、10時に30分ほど前から三四郎は、時折、 目の前にある本を落ち着きなくパラパラとめくったりするが、 また、書店の入り口の方を(なが)めたりしていた。もともと、 すっぽかされたり待ちぼうけを()らっても、 本を読んでる格好(かっこう)をしていれば目立たないだろうという三四郎流の考えであった。
 次第に予定の時間が近づく中で、
(ああ言ったのは、きっと夢幻(ゆめまぼろし)の空想の世界だったんだ!  いや、もし、本当に言ったとしても、 酒の上での話を()に受けて、 日曜の貴重な時間を()いて来てくれる(わけ)はない!)
 と、そんな往生際(おうじょうぎわ)の悪いことを考えながら、いつの間にか三四郎は、 書店の玄関が見えなくなるほど奥の方へ行って本を見ていた。
 が、ハッとなって腕時計を見てみると、予定の10時を2〜3分過ぎていた。
 (あわ)てて、周囲を見回しながら書店の入り口の方へ向かった。すると、 全く並べてある本には目もくれずに、涼子は入り口の前に立って、アーケード街の通りを眺めていた。
 夢ではなく現実に、自分との約束で来てくれた涼子を見て、三四郎の心臓は急に速く動き出したように感じた。と同時に、一瞬、 すっぽかされたほうが気楽だったのに…というようなとんでもない気持ちまで 脳裏(のうり)(かす)めた。
 そして、ほぼ、涼子の隣の方まで近づいたときに、 涼子の方も雰囲気(ふんいき)察知(さっち)したのか振り向き、 三四郎と視線が合った。
 三四郎の脈拍はますます速くなったようであり、そのうえ、 (のど)の水分は枯れてしまったようであった。 それをぐっと痩せ我慢(やせがまん)しながら、
 
「あぁ、大分(だいぶん)待ったぁ?」
「うぅん、今来たところ」
「植物園でも…行くぅ?」
 
 三四郎は心の中で、「行こうか!」とか「行かないかい?」とか(つぶや)いてみたが、 そこまで親しげに話す自信もなく、 「行きますか?」と尋ねるのも何かよそよそしく、自分じゃないような気がした。 日本語とはなんと難しいものかとつくづく感じていた。
 しかし、ちゃんと涼子には通じていたらしく、
 
「えぇ…」
 
 という了解の言葉が返ってきた。
 二人で、歩いて10分ほどの植物園へ、普段は早足の三四郎は涼子になるべく歩調を合わせようと、 ぎこちなく並びながら何も話もせずに行った。
 小さな植物園なので他には誰も入園者はいないように思われた。
 一息ついて、ようやく涼子の姿全体を眺めてみる余裕もできたが、どこがと言われればよく分からないのだが、 大学のキャンパス内で見るよりも洗練されて大人っぽく感じた。なぜか、皮のハンドバッグが印象的だった。
 しかし、そんなこととは別に、先ほどから全然会話のないことに(あせ)りを 感じてきた三四郎は、またゆとりを失って、まるで()かされるように口を開いた。
 
「おもしろかった小説なんかは…あるぅ?」
サガン(・・・)の小説なんか…」
「えっ、嵯峨野(さがの)…?」
「…?、あぁ、『悲しみよこんにちは』とかの作家、フランソワ・サガンの…」
 
 いきなり、つまずいたように感じた三四郎は、ますます動揺したように質問した。
 
「好きな歌とか映画とかは…?」
「『ベンハー』すごかったわ! …歌では、チューリップの『サボテンの花』が好き…」
「好きなタイプのタレントとかは…?」
「クリスミッチャムとか…」
「…?」
「貴乃花もファンだわ」
「あぁ、貴乃花かぁ」
 
 ここまでの会話の中で、三四郎が知ってたのは貴乃花だけであった。 しかも、それですら、話をつなげていく(すべ)を持ち合わせていなかった。
 だから、二人の話には発展的つながりのある呼吸はなく、 不自然で一方的な尋問(じんもん)攻めに終始した。
 時には、自然な沈黙が若い二人には貴重な時間になるということを、 今の三四郎には全く知る(よし)もなかった。
 それどころか、三四郎は沈黙が続く苦痛に耐えかねて、何か(しゃべ)らなければと ジタバタする。 相手も一緒になってジタバタしてくれるならいいが、冷静な目で受け止められ、見つめられると、 顔から火が出るくらいの(みじ)めさに(おそ)われ、 敗北感と(あきら)めの気分に支配されてしまう。

青  実は、三四郎は、どうやったら一度でもいいから彼女と二人だけでデートできるだろうかと、 そこにばかり必死に気を(くば)っていたので、その後のことは考えていなかった。
 今、考えてみると、「じゃぁ、さよなら…」なんて言って別れてしまうと、この後が続かないじゃないか…
 それに、もし仮に、今後もつき合っていける脈があるとすれば、また会う約束をしないと、 彼女はもう会いたくないのかと思うだろうし、また改めて誘う機会などそう簡単にはないだろう。 どうすればいいんだ…
 折角(せっかく)、酒の力を借りてうまく会えたのに…
 
 三四郎は、あまりの(つたな)さに、 自己嫌悪(じこけんお)(おちい)っていた。 素直にすぐ電話をかけたりする社交的な人間が(うらや)ましいと思った。 …と言うより、こんな人間は自分くらいで、他の人間は、皆、必要なときに堂々と気持ちを 伝えることのできる人間に思えてくる。
 自分のこの暗さと小心さと優柔不断さはいったいなんなんだ… まあ、でも、 今更(いまさら)自分の性格なんてどうにもならないし…
 
 ところが、ここで三四郎の頭には、まるで魔が差したように突然言葉が(ひらめ)いて、 小声でぎこちないが迷うことなく言った…
 
「来週、また会えないだろうか?」
「来週からバイトが忙しくって、ちょっと無理だわ…」
「…ぼくのこと、どう思ってる…」

コマクサ 「おとなしくて、ニコニコして…、いい人だと思うけど…、よく分からない…」
「じゃあ、つき合ってもらえないだろうか…」
「私のことも誤解してるかもしれないし、…友達としてなら…」
 
 出口を一つひとつ(ふさ)がれていくような感じである。
 もはや、三四郎にとっては、ギブアップであった。 これ以上何を言っていいか、どう行動していけばいいか分からなくなった。
 ただ、こんな自己中心的で自爆テロのようなやり方が真っ当(まっとう)でないことなど、 この時点での三四郎には自己分析することは不可能であった。
 三四郎が勝手に想像するところでは、こんな自分の独り相撲のような想いに対して、一度は二人だけで会って、 はっきりと伝えなければならないという涼子のやさしさなのだろうと受け取った。
 そして、三四郎には刑務所から釈放されたような開放感があった。本来、 「自分にはこの(ひと)しかいない」という 切羽詰(せっぱつま)った気持ちであれば、もう立ち直れないくらいのダメージが あったであろう。しかし、逆に、そういう強い気持ちがあれば迫力はすごいものであろうし、 女は誰しもそういった点を軽く見抜いてしまっているのかもしれない…
 
 しかし、いずれにせよ、最初で最後のこのデートの数時間が、三四郎にとっては後々まで、 二人だけの夢のような美しい思い出として焼きついたのである。

 人生とは不思議なものである。もし、最初から順風満帆(じゅんぷうまんぱん)で 成功しぱなっしの人がいるとして、そういう人にはつまらない出来事と感じることであっても、逆に、 その同じような出来事が三四郎のような人間にとっては、貴重ですばらしい時間となって残るのである。 ありがたいことである。
 
 その後の三四郎は、サガンの『悲しみよこんにちは』を読み、映画『ベンハー』を観て、 チューリップの『サボテンの花』を聴いて、クリスミッチャムとは誰なのかと尋ねていたようである…
 誰かと映画談義になると、「『ベンハー』はおもしろい映画だ…」と熱っぽく語り、 カラオケを歌う機会などには、何食わぬ顔で『サボテンの花』を歌っていた…

 


      

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