思考ゲーム
二次元的考察
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私は職業がら三次元的計算をせざるをえないことがある。
ところがこれがとても難しい。
頭のなかで物体を三次元的に想像し、回転させたりしなくてはいけない。
なぜ人間は三次元的考察が難しいのだろうか?
この世は三次元であるというのに。
なんだそんなの簡単だよ。
考えるとき、図形を紙に書いて考えるじゃない。
紙は二次元だ。だから三次元では考えられない。
じゃあ、思考するときの道具として三次元プロッタのようなものがあればできるのだろうか?
特殊なペンを使い、ペンのボタンを押したとき空間に色のついた点が残る。
この道具を使えば三次元空間に自由曲線を描くことができる。
この光景を頭のなかで想像してみる。うーん、紙よりはいいだろうがとてもできそうな気がしない。
なぜなら三次元自由曲線を見ても二次元的にしか見えないからだ。
どうやら「見る」ということに問題があるような気がする。
我々の「見る」という処理は二次元でしかやっていない。目から入った光が網膜に投影される。
網膜というスクリーンは多少たわんでいるだろうが、平坦なものだ。それに投影して見ている。
投影ということ自体が三次元を二次元にしてしまっている。
投影で三次元の情報が失われるため、目を二つ使い、それら画像の差分から立体感を得ている。
我々の脳の画像処理自体が二次元処理をしているから三次元的考察が困難なのではないか?
ここで「三次元的に見るとは」どんなことなのか疑問がわく。
自分の勝手な解釈をここに書いて見ようと思う。
我々が缶コーヒーを見るとき、見る角度によって円だったり長方形だったりする。
それは視線に対し垂直な平面に投影された絵を見ているからだ。このようにある物体が時には円、時には四角形に
見えることのない「見る」という処理を「三次元的に見る」と勝手に定義する。
見る角度によってだまされないようにするには最低三つの目が必要だ。
ようはX、Y、Z方向から見た絵が必要。この3という数字はこの世が三次元だからだろう。
ものの図面を書くとき、一方向から見た図形に寸法をいれても、それは物体を一意に決定できない。
だから三面図というX、Y、Z方向からみた図形を書いて寸法を入れる。
目玉が三つ必要といった理由はこれと同じだ。
ここまで考えると、頭に目玉がいくつもついていると「三次元的に見る」ができそうな気がする。
では想像してみよう。私は私を取り巻く全ての景色を見ることができる。オオ、いいじゃないか。
私の背後にだれかが忍び寄っても、もう見つかっている。ゴルゴ13も真っ青だ。
では缶コーヒーを見てみよう。オヤ、変だな。だめじゃないの?なんで?
缶コーヒーを見るとき、その缶を取り巻くように目玉が配置されていないとだめなのだ!
私の頭に百目タイタンのように目玉がいくつついていようと缶コーヒーを取り巻くような視線で見ることができない。
風景を見るときは風景が私を取り巻いているので百目タイタンは成功する。だが缶コーヒーでは立場が逆転する。
これは結構面白い結果だ。つまり放射状に入るか出るかの違いがここで明確に分かれている。
景色を見る場合は、私を取り巻く景色から私に向かって光りが逆放射にやってくる。
だが缶コーヒーをうまく見るときは缶コーヒーから放射状に出る光をとらえなければならない。
いろいろ考えた副産物で景色と物体が明確に分離できた。ワハハ。
しかし結局缶コーヒーを「三次元的に」見ることはできない。
これをするには、頭から自由に曲げることのできる管が出ていて、その先端に目玉がついているような構造じゃないと
だめだ。こんな生物は時々漫画に出てくるよね。
2001.7.22