義人 宮崎 忠次郎 碑                        BGM

     
                                       

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「ばんどり騒動」と宮崎忠次郎              
 明治2年(1896)、「越中ばんどり党」による農民一揆(米騒動)が起きた。「ばんどり」とは、肩掛けだけで背当てのない蓑のこと。
 大凶作に見舞われた農民達は、餓死に瀕し、年貢軽減を求めるために信望の厚かった塚越村(立山町)の宮崎忠次郎をたて、郡宰山本又九郎に嘆願書を提出した。
 宮崎忠次郎は、「軽はずみな行動は自滅の元であり、騒がず順序を踏んで農民の苦労を訴えれば、必ず救いの知らせがくるであろう。」と説得し、農民達を騒動から遠ざけていたが、郡治局からの約束の回答は、日暮れに及んでも音沙汰がなく、農民たちは再度の嘆願のために無量寺(舟橋村)を出発した。
 しかし、5万人にも達した農民達ではあったが、滑川で郡治局役人と衝突し、壊滅してしまった。宮崎忠次郎は翌年の明治3年、「ばんどり騒動」の罪を一人で背負いながら斬罪(死刑)になり、帰らぬ人となってしまった。
 この義を称えて建てられたのが、この碑(塚越)であるが、利田小学校前庭にも石碑等が設けられている。