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四半世紀前の9・11号のオリコンに「哀愁のさらばシベリア鉄道」の記事があります。
9・21発売のフィヨルド7の謎に迫るシングルの告知記事ですが、ここは文末の1行に注目していただきましょう。
〜大滝氏も10月21日に同曲をシングルとして発売する予定。B面は新曲が収められることになりそうだ。〜
さりげなく新作の告知をしていたんですね。
さてこの号の9・7付「シングル・ホット100」で3週目のトップ1を堅持していたのは、イモ欽トリオの「ハイスクール・ララバイ」です。結果、7週間連続で1位を守りました。
作者は言わずと知れた松本隆、そして作曲には細野晴臣。
作曲家、細野としてはこれがはじめてのチャートインでいきなりのトップ1ヒットになりました。
四半世紀前の9月、松田聖子のレコーディングを進めながら大瀧はこの盟友たちの快進撃を横目で見ていたことになります。
松本は「イモ欽」のオファーに、「細野さんがいいんじゃない」と起用にイニシアティブを執ったと言われています。
一方、
〜詞に曲をつけるのはムヅカシク、一度チラっと見ただけで、一週間以上目につかないところへ隠しておいたくらいでした。で、苦労して作曲したのですが、ナント、肝心の御本人が歌えない(彼女はいい曲だが、自分には向いていない、と思ったそうです)ということで、なかなかヴォーカル・ダビングが行われませんでした。取り敢えずCMだけでも、ということでCMバージョンが録音されました〜(大瀧)
というのが8・6で、このように聖子のほうはレコーディングまで難航したとされていますので、逆算すると「イモ欽」と「聖子」の制作スタートは同時期だったのかもしれません。
松本隆は同時に二人の旧友をヒットチャートの大舞台に引っ張り込んだのです。
思えば大瀧、細野、二人は商業的成功がないばかりに奇才の名を欲しいままにし、時にパラレルに、時に正反対の道を選び、お互いを横目に見ながら70年代を並走してきました。
自宅スタジオでの完全主義にはじまり、リズムの魔力に没頭、西洋と東洋のミクスチュアに音楽生命を費やしました。大瀧が『レッツ・オンド・アゲン』の袋小路に迷い込んだ78年11月、細野は『イエロー・マジック・オーケストラ』を発表しました。
はっぴいえんど解散後、ともに“アンチ松本隆”でやってきた音楽性の究極がソリッドでコミカルでドライでアン・コマーシャルでした。
YMOで日本のみならず海外でも評価を得、一足先に眩いスポットライトを浴びた細野ですが、当時のトレンドを振り返ると、「コンピュータ・サウンドでマーティン・デニーを」というアイディアは成功したからよかったものの、こちらも大きな賭けだったように思われます。
79年から80年、スタジオで悶々と過ごしていた大瀧は、やはり細野のその雄姿を横目で見ていたことでしょう。
翻って70年代を細野と共闘した大瀧が、80年、再び松本と組むことを決断したのは、アンチYMOの表明だったように、今わたしには思えます。
大瀧は「ハイスクール・ララバイ」の大ヒットをまた横目で見て、悲しき既視感に襲われていたかもしれません。
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